博物館レポート
長崎歴史文化博物館へ行ってきました。ここはかつて長崎奉行所が存在した場所であり、つまりは「長崎奉行所跡」でもあります。建設時に発掘された石垣の上にそのまま石垣風のコンクリートを積むことで当時の姿を再現しているようです。(長崎県長崎市立山1丁目1番1号)
当日は「開館20周年特別企画展 長崎遊学」が開催されておりました。知識と情報を求めて日本各地から長崎を訪れた「遊学者」たちを紹介する展覧会です。もちろん観てきましたが、残念ながら撮影は禁止であったため、写真はありません。(申し訳ない)
案内板に、長崎奉行所と海援隊のかかわりについて簡単に説明されてあります
慶応3年(1867)8月、イカルス号事件(※)処理のため長崎に派遣された土佐藩士・佐々木三四郎は、奉行所との交渉のため度々この場所に足を運んでいます。8月18日の午前10時頃、協議のため坂本龍馬らと出向く予定であったことが、岩崎弥太郎の日記に書かれてあり、佐々木の日記にも「雨、四ツ時(午前10時)ヨリ立山役所へ出頭」とあります。ただしこのときは、岩崎は歯痛のため同行しませんでした。※丸山でイギリス軍艦の水夫が殺害され、海援隊に嫌疑がかかった (案内板より引用)
このあと、先述の「長崎遊学」を見学いたしましたが、先に申した通り、写真はございません。
このまま「歴史文化展示ゾーン」へ
歴史文化展示ゾーン
唐人屋敷 Q&A(展示より引用)
- 唐人屋敷はいつつくられたの?
塀と堀で囲まれた唐人屋敷は1689年に長崎奉行所が今の館内町につくりました。- 唐人屋敷の広さはどのくらい?
およそ9500坪で、出島の2.5倍の広さがありました。- 何人くらいの人が住んでいたの?
多いときで3000人の中国人が暮らしていました。- 唐人屋敷にはどんな建物があったの?
中国人の出入りをチェックする一の門(表門)と二の門や2階建ての長屋などが建っていました。媽祖をまつる天后堂などのお堂もありました。- 今はどうなっているの?
唐人屋敷は幕末になくなり、中国人は新地(今の中華街)などに移り住みます。唐人屋敷跡には土神堂・天后堂・観音堂や堀の一部が残っています。
桃の節句 (展示より引用、一部省略)
長崎では初節句を迎える家で親戚などから贈られた握人形をお披露目し、お礼の宴を開きました。女の子には髪飾りやお菓子が配られ、男の子にも小ばたなどが配られました。
桃の節句の料理(ちらし寿司、タニシの煮物、すぬた和え、お煮しめ)
『解体新書』のレプリカ。手に取って読むことができます。これとは別に本物も展示してありますが、もちろんそちらは手に取ることはできません。
長崎県の誕生
長崎を重視した明治政府は、九州鎮撫総督府を置き、旧長崎奉行所立山長所を政庁としました。この政庁は、最初、長崎裁判所と呼ばれましたが、すぐに長崎府となり、長崎県という名称が生まれたのは1869年(明治2)のことでした。現在の長崎県の行政区画となったのは1883年(明治16)、その間、合併分割が繰り返され、一時期は現在の佐賀県の全部が長崎の管に属していたこともありました。 (展示より引用)
長崎奉行所ゾーン
ここから「長崎奉行所ゾーン」。実は過去に来たことがあったもので、このあたりから早足になってしまいした。
当博物館はキリシタン関連の展示がとても多い、その理由が展示案内板に記されていました。以下に引用します。
長崎奉行所旧蔵 キリシタン関係遺物について
キリシタンを摘発するための「踏絵」、そして宣教師たちが日本に持ち渡った聖画、浦上三番崩れ、浦上四番崩れのときの没収品などキリスト教に関わるものは、当館の敷地にかつて所在した長崎奉行所立山役所の宗門蔵で、明治初め頃まで厳重に管理されていました。また1870年(明治3)には、浦上四番崩れの流配先で、信徒が身につけていた信心具が没収され、長崎県に送り返されました。
その後、これらの資料は、1874年(明治7)に長崎県から明治政府の教部省へ移管され、内務省社寺局、博物館を管轄する。同博物局、その博物館を管轄することになった農商務省・宮内省と転々とし、1906年(明治39)、帝室博物館の第5回特別展「嘉永以前西洋輸入品及参考品」において初めて一般公開されました。戦後、東京国立博物館に移管され、1977年(昭和52)には国の重要文化財に指定されました。
当館では、2005年(平成17)の開館以来、東京国立博物館のご協力を得て長崎奉行所旧蔵等のキリシタン関係遺物を特別に公開しています。
ここから、過去に撮影していた写真を掲載します。2013年10月18日のものなので、なんと13年も前の写真です。
ここから再び本日撮影したもの。
最後におまけ。当日はランタンフェスティバルの最終日でしたので帰りにてきとーに見ていきました。そこで運よく坂本龍馬さんに出会うことができました。
では、ここまでとさせて頂きます。
最後まで見てくれてありがとうございました。
追記、下記に博物館に展示されていた「長崎奉行所関連年表」を引用、掲載します。よろしければご参照ください。
長崎奉行所関連年表
長崎奉行所とは現代でいうなら国の重要一機関のようなところ。そこは長崎奉行とその下で働く人たちの執務場であり、生活の場でもありました。
初め、16世紀末に本博多町(現 万才町) に置かれ、その後、外浦町(現 江戸町)に移りました。
1633年、奉行職は一人から二人制となり、二つの役所が設けられました。
ところが、二つが同じ場所にあることが不都合となり、立山に奉行所を新設することになりました。
これにより、旧来の奉行所を西役所、新設の奉行所を立山役所と呼びました。
長崎奉行所は、1868年、長崎奉行河津伊豆守祐邦の脱出により、事実上その役割を終えました。
基礎メモ
| 寛永10年(1633) | 長崎奉行職一人制から二人制となる |
|---|---|
| 延宝元年(1673) | 立山役所新設 |
| 元禄12年(1699)~正徳2年(1712) | 長崎奉行職最大四人制となる |
長崎奉行所年表
| 文禄元年(1592) | 本博多町(現・長崎市万才町)に奉行所設置 |
|---|---|
| 寛永10年(1633) | 奉行二人制に伴い、奉行所内に2つの役所を設置。火災で焼失。外浦町(現・長崎市江戸町)に再建 |
| 寛文3年(1663) | 火災(寛文の大火)で焼失。周辺地に拡大し新築 |
| 延宝元年(1673) | 長崎奉行所東役所を立山(現・長崎市立山)に移し、当時解体中の天草富岡城の建材を取り寄せ、長崎奉行所立山役所完成。従来の外浦町の奉行所を西役所と称する |
| 延宝6年(1678) | 西役所、火災で全焼。翌年再建 |
| 元禄11年(1698) | 西役所、火災で半焼。改築される |
| 正徳5年(1715) | 立山役所の隣地に岩原目付屋敷を建てる |
| 享保2年(1717) | 立山役所・西役所とも全面改築 |
| 寛保4年(1744) | 立山役所・西役所とも全面的に瓦葺となる |
| 天明9年(1789) | 立山役所の南長屋を修築 |
| 寛政5年(1793) | 立山役所の東長屋を修築 |
| 寛政8年(1796) | 立山役所専用水樋(狭田水樋)がつくられる |
| 文化元年(1804) | 立山役所の奥書院・土蔵・本屋・長屋の建て替え |
| 弘化2年(1845) | 立山役所の組織替えに伴い、白洲などを改築 |
| 安政2年(1855) | 西役所内に海軍伝習所が置かれる |
| 安政4年(1857) | 西役所内に医学伝習所が置かれる |
| 安政5年(1858) | 岩原目付屋敷内に英語伝習所が置かれる |










































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