ボタン(牡丹)

ボタン(牡丹)の歴史

ボタン(牡丹)は、中国原産のボタン科ボタン属の落葉小低木。
日本では春の季節にピンク色の非常に大きな花を咲かせる。
その優雅な姿から「百花の王」や「花王」といわれる名花だ。
品種改良の歴史が長く、花色や容姿のバリエーションが豊富にある。

ボタン(牡丹)

ボタン(牡丹)

樹高は原種で3メートル、接木で作られる園芸品種で1.5メートルほどである。
従来は種からの栽培しかできなくて正に「高嶺の花」であったが、戦後に芍薬を使用した接ぎ木が考案され、急速に普及した。
鉢植えや台木苗で市場に出回る。

歴史

ボタンがいつ頃日本へ渡来したかは定かではない。
一説には聖武天皇の頃に渡来したといわれるが、恐らく奈良時代に薬草として渡来していた。
8世紀には既に栽培されており、文学に登場したのは『枕草子』が最初である。
夏、初夏の季語で、そのほか牡丹の芽は春、初春の季語、狐の牡丹は晩春、牡丹焚火は初冬、冬牡丹、寒牡丹、冬の季語。
平安時代以降、宮廷や寺院で観賞用として栽培されたが、江戸時代になると庶民の手に移り、元禄、宝永の頃、爆発的な流行を呼んだ。
現在多く栽培されているのは明治時代に開発された品種である。

ボタン(牡丹)

ボタン(牡丹)

文化

ボタンは多くの文人墨客が牡丹を愛し、絵を描いてきた。
狩野山楽の「牡丹図」、葛飾北斎の「牡丹に蝶」、速水御舟の「牡丹」「墨牡丹」などが代表作である。
絵画以外にも着物を始め、陶磁器や漆器、家具などの文様に好んで描かれてきた。
雛人形の調度にも牡丹をあしらった道具が並ぶことが多い。

ボタン(牡丹)

ボタン(牡丹)

ボタンの花の家紋

ボタンの花は家紋としても用いられている。
牡丹紋は日本の家紋の一種で、牡丹の花や葉を図案化したものである。
日本の朝廷に於いて関白を務めた近衛家が車紋(牛車に描かれる紋)として使用したのが初めといわれる。
京都東本願寺へ、近衛家の子女が幾度か嫁したことを縁に真宗大谷派の宗紋ともされている。

海外でも品種開発が盛ん

ボタンは中国や日本などのアジアだけでなく、フランスやアメリカでもそれぞれにたくさんの品種が作られている。
フランスでは、黄花の野生種「ルテア」をメインに、またアメリカでは暗紅紫色の花をもつ「デラバイ」から様々な種類が開発された歴史がある。
そしそれら海外で作出されたボタンも日本へと逆輸入されている。

名前の由来

ボタンの名前の由来だが、中国語の「牡丹」を日本語読みにしたものである。
中国名では「モウタン」と発音する。
「牡丹」という文字の由来は、「牡」が地際から出る株元の形を表す言葉で、「丹」が赤い色を意味している。

別名

ボタン多くの別名を持ち、「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「名取草」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」などがある。

立てばシャクヤク、座ればボタン

「立てばシャクヤク、座ればボタン」という言葉がある。
これは、花の美しさを美人にたとえ、ボタンの近縁種のシャクヤクはスラリとしてしているので立っている美人に、ボタンは低く横にはっているので座って落ち着いている美人に例えている。

シャクヤク(芍薬)

シャクヤク(芍薬)

中国におけるボタンの歴史

中国西北部が原産地は中国西北部である。
元は薬用として利用されていたが、盛唐期以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになった。
たとえば、『松窓雑録』によれば、玄宗の頃に初めて牡丹が愛でられるようになったものの、当時は「木芍薬」と呼ばれていたと記載される。
また、隋の煬帝や初唐の則天武后が牡丹を愛でたという故事がある。
ただし郭紹林はこれらの故事を慎重に検討し、虚構であると結論づけている。
清代以降、1929年までは中国の国花であったとされることもあるが、清政府が公的に制定した記録はみられない。
1929年、当時の中華民国政府は国花を梅と定めた。中華民国政府が台湾に去った後、公式の国花は定められていなかった。
中華人民共和国政府は近年、新しく国花を制定する協議を行い、牡丹、蓮、菊、梅、蘭などの候補が挙げられたが、決定に至らなかった。

ボタン(牡丹)

ボタン(牡丹)


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