日本史と言えば、多くの文化が生まれた平安時代や江戸時代に目がいきがちであるが、室町時代には多くの日本独自の芸術が花開いた。
室町時代には「茶の湯」「生け花」「能・狂言」などの伝統文化が誕生した。
室町時代の文化は、時期によって南北朝文化、北山文化、東山文化の3つに分けられる。
南北朝時代は、激しい動乱の時代であった事から、その時期に生まれた文化も、次代の緊張感が如実に反映された物だった。
『太平記(たいへいき)』や『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』をはじめ、多くの軍記物語と歴史書が作られた他、『二条河原落書(にじょうがわららくしょ)』(新政当時の社会を諷刺した文書)に書かれているように、多人数で和歌を連作する連歌が流行した。
また茶の異同を飲み分けて勝負を競う闘茶(とうちゃ)、猿楽(さるがく)、田楽(でんがく)から発展した能楽も流行した。
幕府政権を安定させた3代将軍足利義満の時代に開花した文化を北山文化という。
征夷大将軍でありながら太政大臣にまで昇り詰めた義満の時代に相応しく、北山文化は、武家と公家のそれぞれの文化が融合した特色を持つ。
この特色をよく表しているのが、伝統的な寝殿造(しんでんづくり)と禅宗様(ぜんしゅうよう)を折衷した作りを持つ鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく)である。
また、義満の祖父尊氏が臨済宗(りんざいしゅう)の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)に深く帰依した影響で、義満もまた臨済宗を厚く保護した。
その為、禅僧たちによって中国文化の影響を受けた文化が花開き、多くの水墨画が描かれた。
室町時代の文化は、応仁の乱の後、禅の精神に基づく「幽玄・詫び(ゆうげん・わび)」の美意識を基調とした文化へと移行していく。
この文化は、8代将軍義政が作った東山山荘に象徴される事から、東山文化と呼ばれた。
近代和風住宅の原型となった書院造(しょいんづくり)、水を用いずに風景を表現する枯山水(かれさんすい)などが、その特徴をよく表している。
また、室町期には民衆の地位が向上した為、狂言、御伽草子(おとぎぞうし)など庶民に愛される技能・文化も流行した。
12世紀末に栄西(えいさい)がもたらした喫茶法を「茶の湯」として嗜む事を始めたのは、室町時代後期の出家者・村田珠光(むらたじゅこう)であった(侘茶の創始者)。
珠光の没年に生まれた武野紹鴎(たけのじょうおう)は、珠光の茶の湯精神を受け継ぎ、侘茶を発展させた。
紹鴎に師事した千利休(せんのりきゅう)が、後に侘茶を大成させる。
室町時代末期、稀代の為政者・織田信長が茶の湯に触れた時、茶の湯は有効な政治手段となった。
それが名物を献上させる代わりに莫大な金銀・米を与える「名物狩り」である。
結果的にこの名物狩りは茶の湯の価値を高める事となった。
羽柴秀吉も信長に許可を得て天正4年(1576年)頃から茶会を開く。
天下人・秀吉が深く関わった事で、茶の湯は庶民や公家をも巻き込み、一大日本文化として発展した。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)
秀吉の保護の下に活躍した千利休が死去した時、数々の茶人たちがそれぞれのやり方で利休の侘茶を発展させていく。
高弟の古田織部(ふるたおりべ)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)らに引き継がれ、江戸時代に入ってからも新たな茶の湯が次々と開花していった。