スターリングラードの戦い

スターリングラードの戦い

1942年6月ブラウ作戦に始まるスターリングラードの戦い。
ソ連に侵攻したドイツ軍がスターリングラードを一時は占領するが、ソ連軍が反撃してドイツ軍を包囲。
ドイツ軍も救出作戦を展開するが失敗、補給路を断たれ孤立したドイツ軍が投降を始め、降伏する。
ドイツ軍の敗退が続く契機となり、この戦い以降、ドイツは敗北を重ねて行く。
スターリングラード攻防戦の経緯を簡単にまとめる。(1942年6月28日〜1943年2月2日)

油田地帯の確保が目的「ブラウ作戦」

ロシアの「寒さ」に撤退させられたドイツ軍

1941年末、モスクワ前面に迫ったドイツ軍だったが、ロシアの「冬将軍」により首都攻略は成らなかった。(バルバロッサ作戦)
そこでドイツ軍は、翌年度の新たなる攻勢作戦「ブラウ」を立案。

資源を欲しがるドイツ

ソ連を石油不足に追込み、あわよくば奪う作戦

同作戦は、ソ連南部に集中した攻勢で、同国の主要石油供給源たるカフカスの油田地帯を押さえて石油不足に追い込み、できれば産出する石油をドイツに送ろうというものだった。
「ブラウ」作戦では、まずドン川西岸のソ連軍を殲滅。
次に攻勢軸を二分し、A軍集団はカフカス油田地帯からバクー油田へと侵攻し、B軍集団はスターリングラードの占領をともなうヴォルガ川西岸の制圧を行う手はずである。

本国から離れすぎ補給が届かなくなったドイツ軍

だがA軍集団の進撃路ではソ連軍が激しく防戦して前進は難渋。
しかし苦戦の末にロストフを、さらにノヴォロシースクやマイコプを占領していった。
ところが続く激戦のせいで同軍集団は兵力が不足。
加えてドイツ本土から延々と連なる兵站線の距離的限界点に達しており、防衛線を構築して防戦は行えても、さらな攻勢をかけることは不可能だった。

ヒトラーのメンツ

「スターリンの名」に恥をかかせたい

一方、メンツとプロパガンダにこだわるヒトラーは、「スターリンの名が冠せられた街」の奪取に強い執着を見せた。
そして、B軍集団によるスターリングラード攻略に強い関心を示す。

スターリングラードの戦いが始まる

ドイツ軍がスターリングラードへ侵入

1942年9月13日早朝、ついにパウルス上級大将の第6軍は、スターリングラード市街地へと侵入。
以降、4カ月半以上にわたるすさまじい市街戦が行われることになる。

当初はドイツ軍が優勢

当初、スターリングラードを巡る戦いは、攻めるドイツ軍が優勢だった。
しかしソ連軍は損害を無視して増援部隊を投入。
スターリンにしても、メンツがかかった戦いだった。

ドイツ軍が劣勢に

市街地の9割をドイツ軍が制圧

ドイツ軍はスターリングラード市街地の9割を制圧した。

ソ連軍が包囲作戦「ウラン」で反撃

しかし、11月1日にソ連軍が包囲作戦「ウラン」を発動する。
第6軍の北翼に連なるルーマニア第3軍は、ソ連軍の猛攻撃で潰走。
翌20日にも、南翼に連なるルーマニア第4軍が粉砕され、第6軍は包囲されかかっていた。

軍部は撤退を求めるがヒトラーが拒否

戦況の悪化を憂いたパウルスは、ヒトラーに撤退を求めたが許可されない。
「スターリンの名が冠せられた街」から撤退することは、ヒトラーのプライドが許さなかった。

補給が追い付かないドイツ軍

代わりに、包囲下の第6軍に空から補給し、戦い続けさせることになる。
だがドイツ軍の細々とした空輸量では、第6軍を支えるのは不可能だった。

総統命令を無視して友軍救援を図る部隊も…

新設のドン軍集団を率いて援軍に向かったマンシュタインは、ヒトラーのスターリングラード死守命令を無視して救援作戦を実施したが、肝心の第6軍が同調せず失敗。

ドイツ軍が降伏(ヒトラーには無断)

「降伏するなよ」と脅しで元帥を任命

1943年1月30日、ヒトラーは包囲環の中のパウルスを元帥に昇進させる。 これは「ドイツの歴史において元帥が降伏した例はひとつもない」として、捕虜になることを許さないためだった。

結局、降伏

しかし2月2日、ついにドイツ軍は降伏した。
約30万のドイツ兵は約20万が死傷し、約10万人が捕虜となり、ソ連の収容所に連行されたドイツ兵捕虜は15年間も抑留され、戦後に帰国できた者は約5000人(6000人)ともいわれている。

ドイツが後退を始める切っ掛けになった

スターリングラードにおけるドイツの敗北は、その後の第二次世界大戦の流れを決定づける事となった。
以後ドイツ軍は後退を開始し、43年7月にモスクワの南方のクルスクで起死回生を図るが失敗する事になる。

ハリコフ奪回

大将が逃走、ハリコフが奪われる

ドイツ第6軍を壊滅させた後、勢いに乗ったソ連軍は後退するドイツ軍を追撃。
ハリコフを守るハウサーSS上級大将のSS装甲軍団は、第6軍の二の舞を避けるべく死守命令に反して独断で撤退し、ヒトラーを激怒させてしまう。

マンシュタインが指揮

2月17日、ヒトラーは前線を視察しハリコフの即時奪還を求めるが、司令部の近くにソ連軍が迫ると、マンシュタインに作戦の立案と行動の自由を与えた。

ハリコフを奪回

そこで彼は20日、長い進撃で疲弊したソ連軍に第1段階の反撃を加えて押し戻す。
さらに3月7日、第2段階の反撃を開始し15日にハリコフを奪回。
この見事な戦術は「マンシュタインの後手からの一撃」として高く評価されている。


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