スモレンスクの戦い(1941年)

スモレンスクの戦い(独ソ戦1941年)

モスクワ攻略を目指すドイツ軍

要衝スモレンスク攻略をめぐり独ソが衝突

1941年7月6日〜1941年8月5日

1941年7月のはじめにミンスクを陥落させ、ベラルーシ全域を占領したドイツ軍中央軍集団は、ドニエプル川を渡河、交通の要衝スモレンスクを目指した。
装甲集団はソ連軍の反撃を退け、スモレンスク周辺の包囲を進めた。
中央軍集団はスモレンスクを占領し周辺部の包囲にも成功、大勝利を収めたが、ドイツ軍も兵站が破綻しつつあった。

ベラルーシ占領を果たしたドイツ

ドイツ中央軍集団、中央の攻撃を担う

「バルバロッサ作戦」で中央の攻勢軸を担う中央軍集団は、フォン・ボック元帥の指揮の下、ハインツ・グデーリアン上級大将の第2装甲集団、ヘルマン・ホト上級大将の第3装甲集団という強力な装甲部隊を擁し、迅速な侵攻を期待されていた。

開戦1週間でソ連領を400キロも侵入

開戦劈頭の戦略的奇襲成功に乗じ、第2、第3装甲集団は、国境の戦線を突破、最初の作戦目標ミンスクを目指した。
ブーク川、ニェマン川を渡河すると、ビヤリストクを迂回して6月28日には両装甲集団はミンスクで合流、この間に中央軍集団は敵2個軍を包囲殲滅した。
第2装甲集団グデーリアン麾下の第24装甲軍団は、さらに東方へと100キロ前進して、ベレジナ川の渡河点を確保した。
かくして中央軍集団の先鋒たる両装甲集団は、開戦1週間でソ連領内の約400キロまで侵入するという、目覚ましい前進を果たした。

ベラルーシのソ連軍が壊滅

この急進に対し、ベラルーシに配置されたソ連西部方面軍の各部隊は孤立、指揮系統は混乱を極め、壊滅状態に陥った。

ドイツ軍、スモレンスクに迫る

ベラルーシの次はスモレンスク

7月初めにはベラルーシの首都ミンスクを陥落させた中央軍集団の次なる目標は、国境のブレストからミンスクを経て首都モスクワへと至る街道上の交通の要衝、スモレンスクである。

スモレンスクの次はモスクワ

スモレンスクは、ソビエト・ロシアの首都であるモスクワから約400キロ西に位置しており、この都市の失陥はモスクワに直接の危機をもたらすこととなる。

ソ連軍最強部隊がドイツを迎え撃つが

スモレンスク前面にソ連が防衛線を構築

ソ連軍は、スモレンスク周辺に39個狙撃兵師団からなる5個軍を配置、3個軍を増援に送り、スモレンスク前面に防衛線を構築しようとした。
そしてその時間を稼ぐため、西部方面軍の第5、第7機械化軍団による反撃を行った。

戦力ではソ連軍が優勢だった

両機械化軍団は、それぞれ2個戦車師団、1個自動車化狙撃兵師団を基幹に多くの支援部隊から編成され、各師団はドイツ軍の装甲師団以上の戦力を有していた。
保有戦車も新型のT-34、KV-1を含んでいた。

練度が低いソ連軍、兵装性能を発揮できず

ソ連戦車がドイツ軍の兵装を圧倒する

T-34中戦車、KV-1重戦車は、火力・装甲とも、ドイツ軍主力の3号戦車、4号戦車を上回る性能を有していた。
3号、4号の放った砲弾を弾き返し、反撃の砲弾によりドイツ軍戦車は返り討ちに遭った。
また対戦車砲でも歯が立たず、遭遇したドイツ軍最前線は一時パニックに陥った。

兵員の練度ではドイツ軍が圧倒的に優位だった

しかし、いかにカタログスペックが優れていようと、使用する兵士の練度が高くなければ、その性能は十分に発揮できない。
KV-1は鈍重に過ぎ、速度性能にも優れたT-34も、乗員の練度不足と無線機器などの不備により部隊としての連携を欠いていた。
そこを突いたドイツ軍の側面攻撃や迂回しての後方からの攻撃、そしてフランスでも威力を発揮した88ミリ高射砲の水平射撃により破壊されていった。

スターリンの「大粛清」で軍が弱体化

熟練の指揮官が粛清され、未熟練者が指揮官に

ソ連軍の反撃に投入された両機械化軍団は、戦力としては当時のソ連軍において最強の部類であったが、指揮官レベルで問題を有していた。
この機甲戦力を率いる指揮官は、どちらも兵士からの叩き上げの軍人であった。
しかし第5機械化軍団長こそノモンハン事件で日本軍相手に戦車旅団を率いて戦い、独ソ開戦時には戦車師団長を務めるなど経験を積んでいたが、第7機械化軍団長は大規模機械化部隊の指揮経験が皆無であった。
この一例に代表されるように、軍団長、師団長をはじめとする指揮官クラスに未熟練、経験不足の指揮官が多かったのは、1937年の「大粛清」の影響が大きかった。

疑心暗鬼となったスターリンが軍幹部を処刑

加えて、ソ連軍の最高司令官であったスターリンの所業が混乱に輪をかけた。
緒戦の大敗は味方高級指揮官が敵ドイツ軍に通じていたためであるとして、6月30日、西部方面軍司令官ドミトリー・G・パブロフ上級大将を解任、モスクワに召喚の上、「人民の敵」として処刑、続いて西部方面軍の空軍司令官代理、砲兵部長、通信部長ら幹部を逮捕した。
この措置は、前線のソ連軍指揮官層に大きな動揺をもたらしたことは間違いない。

ソ連の反撃が失敗

ドイツ軍は着々と進軍

ソ連軍西部方面軍の反撃は失敗に終わり、7月10日、ドイツ中央軍集団は、ドニエプル川を第2装甲集団に渡河させる。
侵攻の要として、多くの装甲部隊が配属された中央軍集団だったが、第3装甲集団がヴィテブスク方面からスモレンスクの北側に進撃、第2装甲集団はオルシャ〜モギリョフの間からスモレンスクの南側を進撃した。

スモレンスクを包囲していくドイツ軍

7月10日から20日までの10日間に、第3装甲集団の先頭はドニエプル川支流ヴォップ川沿いのヤルツェヴォに、第2装甲集団の先頭はドニエプル川支流デスナ川沿いのエリニャに達した。
ヤルツェヴォはスモレンスクの北東60キロ、エリニャは同じく東83キロに位置しており、2個装甲集団はスモレンスク東方において、南北から包囲の輪を形成しつつあった。
そして同時にスモレンスク周辺にも圧力をかけていった。

スモレンスク周辺にはソ連の大戦力が待つ

ソ連軍は、スモレンスク周辺に第13、第19、第20、第21、第22の5個軍、総計39個狙撃兵師団に及ぶ兵力を展開していた。

スモレンスク内部には「死守命令」がだされる

スモレンスク市内では、第16軍が労働者義勇軍や民兵と守りを固めていた。
これら配下の部隊には死守命令が下された。

スモレンスク陥落(1941年8月5日)

わずか一日でスモレンスク陥落

7月15日、第2装甲集団はスモレンスクへの攻撃を開始、激しい市街戦が展開された。
壮絶な戦闘ではあったが、翌日16日の夜には市内のほぼ全域がドイツ軍の占領するところとなり、スモレンスクは陥落した。
これにより、スモレンスク周辺の包囲は時間の問題となり、展開していた各軍は孤立の危機を迎えた。

ソ連が奪回に動くも接近すらできず

この包囲を防ぎ、スモレンスク奪回のため、ソ連軍は4個軍を投入する大規模な反撃を急遽企図した。
7月23日に反撃は開始されたが、準備不足のため効果的な反撃とはならず、スモレンスク奪回どころか、接近もままならなかった。

スモレンスク包囲に手こずるドイツ軍

しかし、この反撃の撃退に腐心したドイツ軍装甲集団は、スモレンスク周辺の包囲の輪を中々閉じることができず、スモレンスク周辺部から多くのソ連軍部隊の東方への脱出を許してしまった。

8月5日 スモレンスク包囲が完了

8月に入り、ソ連軍の反撃が中止されて、ようやくドイツ軍はスモレンスク周辺の包囲に成功、8月5日、中央軍集団はスモレンスクの戦いの終了を宣言した。
包囲されたスモレンスク周辺では、ソ連軍の将兵約25万人が捕虜となった。

ドイツの圧勝、ソ連の完敗

スモレンスクの占領とソ連西部方面軍を壊滅させた、ドイツ中央軍集団の圧勝であった。

ドイツ軍、戦果の影で破綻しつつあった兵站

兵站が伸び、前線まで補給が届かなくなりつつあった

ドイツ軍は表面的には、赫々たる戦果を挙げたように見えるが、その実、攻勢の主力である中央軍集団の第2、第3装甲集団は、多大な損害を受けて消耗していた。
開戦時、各装甲師団は200両から300両の戦車をもって進撃を開始したが、7月下旬の段階で使用可能な戦車は1/3から1/4に減少していた。
当然、歩兵砲兵などの部隊や空軍の戦力も消耗しており、それらを補充する兵力や物資を送る補給ルートが全く追いつかず、前線には補給が行き渡っていなかった。

“鉄道”が通った地域までは補給が届くが…

ドイツ本国からの軍需物資は、鉄道で輸送されるが、鉄道から前線まではトラックで輸送される。
鉄道網、道路網が発達していたフランスなどヨーロッパでは、前線までの物資輸送に困難は少なく、ドイツ軍の「電撃戦」の展開に支障をきたすことは少なかった。
しかし、ソビエト・ロシアの大地では事情が全く異なっていたのだ。

ソ連領内はインフラ整備不足だった

鉄道の規格が違い、道路は未舗装

まず鉄道の軌道は、ヨーロッパ標準軌とロシアの広軌では幅が異なり、そのまま列車を乗り入れることができなかった。
トイツ軍も軌道の換装に着手していたが、工事は遅々として進まなかった。
トラック輸送にしても、ロシアでは未舗装の道路が大半を占めており、大軍の通過で荒れ果てた上に、雨に見舞われれば荒れた路面はぬかるんでトラックの走行は難渋するという、劣悪な道路事情であった。
これでは補給計画の実行もままならず、兵站は破綻しつつあった。

侵攻するほど、本国から離れるほど、補給が不足

前線部隊への補給が困難であることは、ソ連軍も同様であったが、自国内で連敗により後退を続けたため、物資の発送元が近くなり、補給を最前線に届けるのは多少は楽にはなっていた。
逆に、ドイツ軍はロシアに進撃すればする程、自国領が遠ざかり、それに比例して補給の困難さが増していくのである。


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