フィリピン攻略戦

フィリピン攻略戦

1941年12月から1942年5月にかけてフィリピンで行われた戦い。交戦勢力はアメリカ軍で、日本側の勝利に終わった。
後のGHQ総司令のダグラス・マッカーサーが指揮をとった戦闘である。
戦闘で捕虜となった7万人もの米比軍を、不衛生な環境で60キロも徒歩で移動させた結果、多くの死者を出した「バターン 死の行進」で知られる。

マニラの無血占領

非武装都市だったマニラ

本間雅晴(ほんままさはる)中将が指揮する第14軍は、リンガエン湾(12月22日 第48師団)とラモン湾(12月24日 第16師団の一部)に上陸し、10日後の昭和17年(1942年)1月2日マニラを占領した。
そこまでは大規模な戦闘は殆ど行われなかった。
開戦と同時に実施された陸海軍航空隊の空襲で、在フィリピン空軍がほぼ全滅した事と、マニラのオープン・シティー(非武装都市宣言)がなされていた 事が幸いしたのである。

非武装都市宣言が出されていたマニラ

非武装都市宣言が出されていたマニラ

マッカーサーの戦略を見誤った日本軍

最高指揮官ダグラス・マッカーサー大将以下の米比軍は、マニラ湾を形づくるバターン半島に退却していた。
日本軍はその数をせいぜい30000と見て、戦わずして半島のジャングルに逃げ込んだ軍隊などものの数ではないと判断した。
だから、第14軍の最強部隊・第48師団は蘭印(オランダ領・現インドネシア)攻略の為、さっさとマニラから引き揚げさせられた。

第一次バターン攻略戦

ジャングルでの戦闘経験がなかった日本軍

バターン半島に退却した米比軍の追撃、治安警備部隊・第65旅団(約7000名)が担当する事になった。
バターン半島は長さ50キロ、幅30キロ、大部分が山岳とジャングルに覆われている。
旅団は分散してそのジャングルの中に分け入った。
しかし、まともな地図もない上に、人跡未踏に近いジャングルそのものが初体験だったため、ただ進だけでも難渋したという。
しばらくすると、標高1000mのナチブ山系に拠る防御線にぶつかり、猛烈な砲撃を受けた。
将兵は次々と戦死し、攻撃を開始して2週間で約2000名が死傷した。
この旅団は元々戦闘の為の大砲を持っておらず、いわば小銃だけの装備でジャングルの中に突進したのである。

バターン半島最前線の様子

バターン半島最前線の様子として、当時公表された写真
実際の戦場の様子かどうかは疑問の声もある

用意周到に戦備を整えていた米比軍

米比軍は、山岳とジャングルに覆われた天然の要塞・バターン半島に、戦争が始まる約一年前から、三段構えの強固な防御線を構築し、各師団はそこで敵を迎え撃つ演習を重ねていた。
開戦と同時に、兵器、爆弾、石油、食糧など、6カ月の攻防に耐えられる分量を急速輸送したのである。
しかも、半島の先にはコレヒドール島という大要塞があり、そのまた近くには軍艦に似ているので通商「軍艦島」のフライレ島要塞が控えていた。

既に大きな犠牲を出していた日本軍

第14軍司令部がその事にようやく気付いたのは、2月の中旬、マニラの倉庫に残されていたバターン半島要塞の詳細な地図を発見した時である。
バターンの米比軍をあまりにも甘く見すぎていた事は、明白だった。
しかし、既にその時、第65旅団は第二防御線サマット山攻撃に挑んで、兵力の2/3程度を失っていた
途中増援された第16師団の一部も、大部分の兵力を失っていた。

バターン半島攻略戦で火を噴く日本軍の大砲

バターン半島攻略戦で火を噴く日本軍の大砲

第二次バターン攻略戦

大幅に戦力を補充した日本軍

大本営と南方軍はフィリピンの戦力を大急ぎで強化した。
砲兵部隊が続々とバターンに送られ、重爆撃機を中心とした航空隊が配属された。
歩兵部隊も、第4師団と第21師団から引き抜かれた三個大隊を中心に編成された永野支隊が新たに増派されたのを始め、第65旅団や第16師団の補充部隊(計4500名)も到着した。

バターン半島内の安全地帯を進撃する日本軍

バターン半島内の安全地帯を進撃する日本軍

日本軍の砲撃が始まる

4月3日午前9時、日本軍の砲弾が開始された。
約200門の各種大砲が殷々たる砲声を響かせてナチブ山系を震わせ、サマットを中心とする敵陣地に炸裂しては轟々たる爆発音をこだまさせた。
砂塵が数十mも舞い上がり、砲煙が視界を遮った。
それは陸軍始まって以来の大集中砲撃だった。

米比軍陣地を火焔放射器で攻撃する日本軍

バターン半島の米比軍陣地を火焔放射器で攻撃する日本軍

米比軍の降伏

午後になって砲撃は一段と強化され、米比軍の砲台は次第に沈黙していく。
時を移さず歩兵部隊が前身して陣地を占領する。
防御線を突破するたびに、砲兵部隊も陣地を次々に前身させて、新たな米比軍陣地に砲撃を加え、半島先端に追い詰めていった。
1週間後の4月9日、東部地区の司令官キング少将が、さらに11日には西部地区の司令官ジョーンズ少将が投稿し、組織的な抵抗は終わった。
1月9日以来の戦いで半数以上の死傷者を出した第65旅団の将兵は、米比軍最大の陣地マリベレス山の頂に日の丸を掲げ、万歳を叫んだ

バターン半島総指揮官キング少将と日本軍首脳

バターン半島総指揮官キング少将と日本軍首脳

捕虜7万人「死の行進」

半島の先端マリベレスを中心に投稿した将兵は合計7万名、市民・婦女子も含めると10万名とされる。
日本軍はその数を集計する事だけでも一苦労だったという。
マラリアに罹ってフラフラとした足取りの将兵もいたが、中にはヒゲをきれいに剃り、糊のきいた軍服を着て、「ハロー」とにこやかに手を振る将校もいた。

バターン半島のジャングルから出てきた米比軍将兵

バターン半島のジャングルから出てきた米比軍将兵

多くの捕虜を養う環境がなかった日本軍

日本軍は思いもかけなかった大量の捕虜に面食らったという。
日本軍には自動車が無かったので、とりあえずは半島つけ根のサンフェルナンドまでの60キロを徒歩で護送し、そこから列車でマニラ近郊の収容所へ移送する事になった。
しかし、その徒歩護送中、捕虜達の食糧が用意できなかった

拷問のような環境であった行進

飢えと疲労が重なった捕虜にとて、炎天下の行軍は一種の拷問だった。
1日15キロ程度の歩みだったが、途中で1200名のアメリカ人将兵と、16000名のフィリピン人将兵が死亡したといわれる。

バターン死の行進

バターン死の行進

辻正信中佐の私的命令

なかには日本軍に射殺された者もいたという。
それは、現地で督励していた参謀本部作戦班長 辻正信中佐の口頭による「私的命令」によるとされている。
そんな無謀な命令を嫌って、管轄の捕虜を逃亡させた部隊もあった。

サンフェルナンドに到着すると、あまりにも多い捕虜に窮してフィリピン人将兵約6万名あまりをその場で放免した。

戦後になって問題視された「死の行進」

護送の途中に脱出し、奇跡的にもオーストラリアまで逃げ延びた3名の米兵によって、「バターンの死の行進」は日本軍残虐行為の一典型として格好の宣伝材料となった。
第14軍司令官本間中将は、戦後マニラの軍事法廷で、この処置の責任を問われて銃殺刑となっている。

コレヒドール島要塞の攻略

天然の要害だったコレヒドール島

バターン半島の先端から2キロの海を隔て浮かぶコレヒドールは、長さ6キロ、幅は最長部分でも2キロという小さな島である。
島全体が岩盤で、天然の洞窟があった。
米軍は早くからこの島に大将60門の大砲を据え付け、マニラ湾に対する防御とした。
洞窟には通信施設や宿泊施設を設け、当時、ウェーンライト中将以下15000名の米比軍が立てこもって、日本軍に対する最後の抵抗拠点としていた。

コレヒドール要塞陥落後

コレヒドール要塞陥落後

マッカーサーの「I shall return!」

日本軍がコレヒドールへ侵攻する前に、マッカーサーとその夫人、ケソン・フィリピン大統領、サザーランド、ウィロビーなど主要閣僚を含めた17名は、命令により3月12日魚雷艇で脱出、ミンダナオ島から飛行機でオーストラリアのダーウィンに到着していた。
空港で記者会見したマッカーサーは、フィリピン解放のため私はまた戻ると明言し、その「I shall return.」はアメリカの流行語となった。

マッカーサーとフィリピン大統領マヌエル・ケソン

マッカーサーとフィリピン大統領マヌエル・ケソン

フィリピンの軍艦島

4月14日から始まった日米の砲撃戦は10日経っても決着はつかなかった。
コレヒドール島のすぐ近くにある通称「軍艦島」、フライレ島からの砲撃も活発だった。

一発の砲弾が勝敗を分ける

日本軍は4月29日から一段と砲撃を強化し、砲撃の合間に爆撃機が空襲した。
5月2日、5時間に3600発という大量の砲弾を撃ち込み、その一発がとうとう厚いコンクリート壁をぶち抜いた。
砲弾は弾薬庫を直撃し、要塞は大爆発を起こした。

米比軍による突然の白旗

5月5日夕方、第4師団の上陸部隊やく5000名は、二手に分かれてコレヒドール島に強行上陸したが、上陸地点で猛烈な抵抗に遭い、約900名が死傷した。
米比軍は洞窟から出てきて逆襲に転じ、翌6日正午頃まで混戦が続いた。
しかし、その直後、突然、米比軍は白旗を掲げた。

マッカーサー脱出後、米比軍は、本間中将に降伏

マッカーサー脱出後、米比軍は、本間中将に降伏

フィリピン人たちは、日本など求めていなかった

7日夜、ウェーンライト中将はマニラからラジオを通じてフィリピン銭気の米比軍に降伏を命じ、フィリピンは日本軍の制圧する事となった。
しかし、その後、日本軍は各地でフィリピン人ゲリラに終始悩まされた
フィリピンは、米議会の議決により1946年までに独立する事が決まっていたのだ。
戦争の大義名分としてアジアの解放を呼号していた日本軍ではあったが、ことフィリピンに関しては、純然たる侵略者でしかなかったという事だ。


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