レニングラード包囲戦

レニングラード包囲戦

1941年9月のドイツ軍のソ連侵攻によってレニングラードは包囲された。
ドイツ軍は飢餓を起こす為、レニングラードを包囲し補給路を断ったまま放置する。
レニングラード市民の飢餓は凄惨を極め、軍馬や犬、さらには人肉まで食される状態となった。
ドイツ軍の敗走でやっと解放されるが、死者数は67万〜110万人に及んだ。 レニングラード包囲戦の経緯を簡単にまとめる。(1941年9月8日〜1944年1月18日)

古都サンクトペテルブルク

レーニンに由来するレニングラード

ソ連の革命家・レーニンにちなんで改名されたレニングラードは、バルト海東部のフィンランド湾深奥に位置した沿岸都市で、かのバルト艦隊の母港となっていた。

ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク

改名以前は、2世紀以上にわたりロシア帝国の首都としてサンクトペテルブルクと呼ばれており、文化の中心であると同時に、第二次大戦直前まで、ソ連最大の兵器生産地でもあった。
1939年当時、ソ連第2の規模を誇る大都市で、人口は約319万人を数えた。

ドイツのソ連侵攻の標的となった

バルバロッサ作戦の攻撃目標に

「バルバロッサ」作戦でソ連に侵攻したドイツ軍3個軍集団のうち、北方軍集団に与えられた最優先の攻略目標が、このレニングラードであった。

伝統ある古都だから優先的に狙われた

というのも、ヒトラーはソ連の戦意を喪失させるには、伝統ある古都のレニングラードを占領するのが大きな効果を発揮すると考えていたからだ。
一方、ソ連側もレニングラードの持つ価値を十分に理解しており、強固な防衛線を築き、死守する構えだった。

ドイツ軍の侵攻を止められず

しかし、ドイツ北方軍集団は、智将フォン・マンシュタイン上級大将の第56装甲軍団とラインハルト大将の第41装甲軍団を先鋒に立て、レニングラードに向け快進撃を続けた。
ソ連軍も、多大な犠牲を払ってドイツ装甲軍団の突進を阻止しようと何度も防戦を試みたが、それはかなわなかった。

地形に苦戦し、進撃が遅れたドイツ軍

ところが、ドイツ軍は機動戦が困難な沼沢地に入り込んだり、損害の補充に手間取って進撃に遅れが生じてしまう。

女性や学生も工事に協力

突貫工事で要塞化したレニングラード

このようにして得られた時間を利用して、レニングラードでは、市街の防御陣地化が女性や学生も動員して突貫工事で進められた。
それと並行し、兵力不足を補充する目的で、労働者や学生を集めた民間防衛隊も編成された。

海軍将兵までが陸上戦に出る

また、レニングラードが包囲される可能性が濃厚となったところで、バルト艦隊は別の軍港に移動したが、その際に海軍将兵を抽出して海軍歩兵部隊を編成。
彼らは慣れない陸上戦で善戦した。

湖が冬に補給路に

1941年9月、レニングラードは包囲されてしまったが、唯一、北東部のラドガ湖だけはドイツ軍も封鎖できなかった。
そして同湖は、後の包囲戦で重要な存在となる。
冬期になるとラドガ湖は凍結し、この湖上を通る補給線となった。

ドイツが、人為的に飢餓を起こす

ドイツの栄養調査機関のツィーゲルマイヤー教授は、レニングラードを包囲したまま放置すれば飢餓に陥り、餓死者が多発して自壊するとの調査報告を軍に提出した。
このような研究成果を参考に、ヒトラーは装甲部隊を苦手な市街戦に投入して無駄に犠牲を出すことと、占領地の住民に食糧を供給する無意味を避け、厳寒の冬が来る前に決着をつけたいと考えて、同地を包囲後は放置することにした。

ドイツ軍の飢餓攻め開始

飢餓のなか食されたものは犬や馬だけでなく…

こうして、ドイツ軍に包囲されたレニングラードでは、すぐにすさまじい飢餓の嵐が吹き荒れた。
このとき、死んだ軍馬や犬はもちろんのこと、一部では人肉食まで行われたという。

湖上を通る補給線「命の道」

しかし、冬期になるとラドガ湖が凍結。
この湖上を通る補給線は「命の道」と呼ばれ、ささやかだが重要な物資の補給と、市民や傷病兵の後退に活用された。

飢餓の中でも軍需工場は動き続ける

きわめて厳しい状況下だったが、レニングラードの軍需工場群は操業を続けていた。
そして、完成したばかりの兵器を最前線に供給していた。

飢餓が凄惨を極める

翌1942年6月上旬、前任者の更迭に伴いレニングラード方面軍司令官とし着任したゴヴォロフ中将は、人肉食までが横行している状況下、士気向上のた交響楽団の演奏を考えた。

作曲家ショスタコーヴィチが故郷の為に演奏

レニングラード在住の作曲家ショスタコーヴィチは、戦禍に苦しむ故郷のために交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」を作曲。
8月9日、包囲下のレニングラードで初演がはたされた。

ドイツ軍の敗走で解放される

死者数は67万〜110万人に及んだ

戦況が好転した1944年1月。
ソ連軍3個方面軍の攻勢により、ようやくドイツ軍を敗走させることに成功。
レニングラードは約900日にもおよぶ包囲から解放された。
その間の死者数は67万人とも110万人とも伝えられる。


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