キーウの戦い

キーウ攻防戦(第二次世界大戦)

1941年8月23日〜1941年9月26日

ドイツのキーウ包囲作戦は、ソ連軍の将兵60万人を捕虜にし、ドイツの勝利となった。
しかし、ドイツ軍はキーウ包囲に時間と物資を消費しすぎたため、これが後のモスクワでの敗退に繋がったという見方もある。

ドイツ軍がウクライナへ侵攻

目標はキーウ包囲

ドニエプル川に到達した南方軍集団の前面には、キーウ(キエフ)を中核としたソ連軍戦線の大突出部があった。
キーウ攻略と南西方面軍を包囲、殲滅するため、中央軍集団から第2装甲集団が南下した。
南北からの挟撃にキーウは完全に包囲されていく。

【ド南方軍集団】ソ連領を南部から攻撃する部隊

ソ連領内南方の攻勢を担当するドイツ軍南方軍集団は、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の指揮の下、ウクライナに向けて進撃を開始した。
その主力は第6、第1の2個軍と第1装甲集団で、一部の部隊は独ソ戦前のバルカン半島での作戦に投入されたため、「バルバロッサ作戦」開始時には間に合わなかった。

ソ連はウクライナ南西部に兵力を割いていた

一方、ソ連軍はウクライナ方面に展開する南西方面軍に最も大きな兵力を配置していた。
ルーマニア領内からは、同盟軍であるルーマニア第3軍と第4軍も進軍したが、南方軍集団は不利な条件下での戦闘を余儀なくされた。

他方面軍の活躍の陰で泥臭く進撃した南方軍集団

キーウまで100キロにドイツ軍が迫る

南方軍集団の第1装甲集団は、ジトミル攻略後キーウまであと100キロに迫っていた。
そこでヒトラーは、キーウ攻略からソ連軍南部方面軍の包囲殲滅を優先するよう命じた。

ウマーニでソ連軍2個軍が撃滅

7月16日、ドニエプル川に向けて進撃していた第1装甲集団の第14、第48装甲軍団は、目標を南方のウマーニに変更した。
第17軍も呼応してヴィンニツァから東に進み、南からは第11軍、ルーマニア第3軍も包囲網に加わった。
かくしてウマーニにおいて、ソ連軍2個軍が包囲、撃滅された。

ドイツ軍が着々とキーウに迫る、ソ連は劣勢

7月30日、ドイツ軍はウマーニを占領、ベッサラビアからの退却に失敗したソ連軍1個軍も撃破された。
ウマーニ包囲戦は、8月半ばまで続き3個軍が壊滅し、ソ連軍南部方面軍は無力化されてしまった。
ドニエプル川以西からソ連軍部隊の排除に成功した南方軍集団は、ドニエプル川、そしてキーウに迫り、8月下旬にはキーウ前面、そしてドニエプル川西岸に到達した。

ド中央軍集団は快進、ド南方軍集団は苦戦

目覚ましい進撃に成功して、大きく前進した中央軍集団に対し、諸事情により苦戦しながらも、なんとかドニエプル川への到達を果たした南方軍集団の前進は好対照であった。

キーウへと進撃するドイツ軍

ウクライナを流れる大河ドニエプル川

大河ドニエプル川は、キーウを過ぎると南東に大きく蛇行してドニエプロペトロフスクに至り、南西に流れを変えて黒海に注いでいる。
ドニエプル川西岸に沿って進出した南方軍集団の戦線は、自然に東へ大きく突出することとなった。

中央軍集団のソ連領侵攻が素早い

そして中央軍集団はスモレンスクでの勝利により、大きく東へ進出していたため、キーウを守るソ連軍戦線はキーウを中心に西への大突出部を形成するに至った。

ソ連側は壊滅した小部隊を再編制

ソ連軍は、ドニエプル川西方で壊滅した南西方面軍を急ぎ再編して、ドニエプル川東岸の守備に就かせた。

モスクワ侵攻を後回しにしたヒトラー

陸軍司令部はモスクワ優先を進言したが…

8月21日、ヒトラーは、モスクワ進撃を優先すべきであるという陸軍総司令部(OKH)の進言を退け、中央軍集団の第2装甲集団をキーウ方面に南下させるよう命じた。

ソ連軍潰滅、ウクライナの国力奪取を優先した

これにより、ウクライナのソ連軍の背後を突いて、ドニエプル川で対峙する南方軍集団と挟み撃ちにすることが可能となった。
またヒトラーは、モスクワ攻略よりソ連軍兵力の撃滅とウクライナの工業地帯、資源地帯の確保を優先すべき、と明言した。

スターリンがブリヤンスク方面軍を編成

スターリンは、キーウ救援と南西方面軍への増援のため、キーウ北東においてブリヤンスク方面軍を編成させた。

大河を越えて橋頭堡を拡大

ド南方軍集団がドニエプル川の渡河に成功

ドニエプル川を挟んで膠着状態に陥るかに見えた南方軍集団の戦線であったが、8月31日、キーウ下流200キロのクレメンチュークで第17軍の一部がドニエプル川の渡河に成功した。
ソ連軍南西方面軍と南部方面軍の担当区域の境界線に当たり、防備が手薄になっていたことを突いての成功であった。
南方軍集団は、クレメンチューク橋頭堡の確保と拡大を急ぎ、第1装甲集団を渡河させて、背後からのキーウ進撃を企図したのである。

ド軍、交通の要衝コノトプを占領

一方、中央軍集団のハインツ・グデーリアン上級大将率いる第2装甲集団は、南方への進撃を開始し、ソ連ノブゴロド方面軍と南西方面軍の境界を突破して進撃を続けていた。
8月26日、デスナ川を渡河してノブゴロド・セヴェルスキーに至ると、9月3日は交通の要衝コノトプを占領した。

ド軍、さらに北へ侵攻

9月11日、南方軍集団のエヴァルト・フォン・クライスト上級大将率いる第1装甲集団は、第4装甲軍団がクレメンチュークから北に進撃を開始。
第14装甲軍団はドニエプロペトロフスクに進出していたが、この進撃に続いた。

キーウ目前に迫るドイツ軍

キーウ死守を命じるスターリン

スターリンは、南方方面軍司令官ミハイル・キルポノス大将にキーウの死守を命じた。
このため、南北からのドイツ装甲集団の進撃により、キーウ包囲が進行中であったが、キーウ周辺の南方方面軍は撤退できずに包囲の輪に閉じ込められていった。

撤退許可を求めるソ連軍部

ドイツ軍第2装甲集団の前進を止めるべく、ブリヤンスク方面軍が東方から反撃したものの、第2装甲集団の進撃を止めることはできなかった。
キルポノス大将もスターリンに撤退許可を具申したが、すでに事態は手遅れとなりつつあった。

完成したキーウ包囲網

9月13日、包囲網が完成

9月13日、キーウ東方150キロのロフヴィツァで、グデーリアン上級大将の第1装甲集団と、クライス上級大将の第2装甲集団が合流した。
シュネル(韋駄天)ハインツとパンツァー(戦車)クライストが手を結んだのだ。

ソ連軍、約65万の将兵が包囲されてしまった

これにより、キーウから東への連絡路は遮断され、キーウ包囲網が完成した。
包囲網の内側には、ソ連軍南西方面軍の4個軍、約65万の将兵が閉じ込められた。

ソ連軍が撤退を試みるが…

キーウ放棄と東方撤退が命じられる

9月17日、キルポノス大将がキーウの放棄と東方への撤退を命じたが、退路は断たれていたのであった。

ソ連軍が抵抗をみせるも状況は変わらず

以後は、包囲するドイツ軍と脱出を試みるソ連軍部隊との戦闘となった。
戦況は残敵掃討という段階に入ったが、絶望的な状況に陥りながらも、なおソ連軍部隊は激しい抵抗を続けた。
この間、脱出を試みたキルポノス大将も戦死を遂げるが、一説には自決したともいわれる。

ソ連軍残存部隊が降伏

9月19日、キーウは陥落したが市内の残存部隊は抵抗を続け、戦闘は9月下旬まで続くことになる。
9月26日、ソ連軍の残存部隊がようやく降伏、キーウ包囲戦は終了した。

ドイツが空前の勝利を収める

66万人を捕虜、戦車884火砲3714を破壊

結果として、ドイツ軍は戦史上空前の大勝利を達成した。
66万5000名に上るソ連軍将兵を捕虜とし、戦車884両、火砲3714門を破壊した。
ドイツ軍がポーランド侵攻の際、戦役全体で得たポーランド軍の捕虜が69万であることを考えると、キーウ包囲戦の一会戦での捕虜66万という数は、ドイツ軍の勝利の大きさと、独ソ戦の戦場の規模の広大さを雄弁に物語っている。

ド軍がソ連軍を潰滅させ、ウクライナ中部大半を制圧

ドイツ軍は、ソ連軍南西方面軍を壊滅させ、キーウを頂点としたソ連軍戦線の突出部を消滅させたことで、ウクライナ中部の大半を制圧した。
前線はドニエプル川を越えて東へ大きく前進した。
中央軍集団南方の脅威も消えて、南方軍集団も東方への前進により、両軍集団の前線は一直線に整理され、次の段階の攻勢準備が進められることとなった。
しかし、次のモスクワ攻略戦でドイツは敗退する事となる。

作戦的勝利か、戦略的失敗か、従来の通説の否定

キーウ包囲戦がモスクワ敗退に繋がった説

このキーウ包囲戦の作戦的な大勝利に対して、時間を浪費したことで戦略的な目標、首都モスクワへの進撃が遅れてしまった。
ソ連軍はモスクワの防備を固め、攻略作戦は冬にずれこんだことで困難を極め、結果としてモスクワ占領に失敗した。
というのは戦後主張された説であり、従来は通説として、事実であるかのように長らく流布されていた。

早い段階で補給が深刻だった為、モスクワ侵攻はムリがあった

だが、8月時点ですでに中央軍集団の補給は深刻な状況にあった。
この時点でのモスクワへの進撃は不可能であり、軍集団の中で補給状態が比較的良好であった第2装甲集団の南方への転回は、唯一可能な方策であった。
そうして作戦的な大勝利を収めたことは、時間の浪費、戦略的には失敗とされる謂れはない。

スターリンにも「亡命」という手段が残されていた

もう一つ、仮にモスクワの占領に成功したとして、それが独ソ戦の勝利に直結したとは断言できない。
首都モスクワは重要な目標であるには間違いないが、その失陥によりソビエト連邦がただちに崩壊するとは限らない。
スターリンは、モスクワから退却して遠くウラル方面に引いての戦争継続も可能であった。

ドイツが勝利を逃した、は言い過ぎか

従来の通説は、戦後にヒトラーとの対立を強調するため、当時のドイツ国防軍の将軍たちが主張したという側面もある。
いずれにせよ、キーウ包囲戦の大勝利により、モスクワ占領の好機を逃し、独ソ戦の勝利が失われた、という通説は再考の余地がある。

どのちみドイツ勝利はありえなかった

結論としては「キーウ包囲よりモスクワ攻略を優先した所で、アメリカ参戦を契機にやがてドイツは敗北しただろう」というところか。


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