クールラント・ポケット

クールラント・ポケット

ソ連軍に包囲されたドイツ軍占領地

ドイツの降伏まで抵抗が続けられた

1944年10月9日〜1945年5月8日

クールラント・ポケットは第二次世界大戦において、ドイツ軍最後まで残ったドイツ軍占領地で行われた独ソの戦い。
バグラチオン作戦の余波で、ドイツ北部軍集団はバルト海に突き出たクールラント半島に閉じ込められ、その状態がドイツの降伏まで続いた。
ヒトラーの夢想ともいうべき将来計画により、ドイツ北部軍集団は解囲も脱出もしない状態に置かれた。
ドイツ帝国の飛び地ともいうべき包囲網のなかにドイツ軍が居座り続けており、ソ連にとっては無視もできない戦いが、ドイツの降伏まで続けられ、1945年5月8日、ドイツ軍の他の部隊と共に降伏した。

バグラチオン作戦の置き土産

取り残されたクールラント

1944年8月1日で「バグラチオン作戦」は終わったが、北方戦域のソ連軍はバルト海を目指して進軍を続け、10月9日にリトアニアのメーメル近郊で第1バルト方面軍がドイツ第3装甲軍を撃破したことでバルト海に到達し、東部戦線のドイツ軍は分断された。
これにより26個師団、約20万名の将兵を擁するドイツ北方軍集団はクールラント半島に閉じ込められた。

軍部はクールラントからの撤収を進言するが…

これに対しドイツ国防軍陸軍参謀総長ハインツ・グデーリアンは、すぐに軍を撤収してソ連軍正面に配置し直すべきだとした。

すでに冷静さを失っていたヒトラー

実現の可能性が薄い新兵器に頼っていた

ヒトラーはこれから増産される新型潜水艦で戦局を挽回できると信じており、その根拠地としてバルト海沿岸にある潜水艦基地を保持することを重視した。(1945年1月初旬、一部の撤退をヒトラーは許可、海路からクールラントを脱した兵は西の戦線に再配置された)
このためクールラントのドイツ軍はそのまま留め置かれ、翌年1月25日には北方軍集団はクールラント軍集団へ改名された。

ヒトラーの了承を得ず、海軍が民間人を救出していた

一方で来たるソ連軍の暴虐から守るため、ドイツ海軍の手で多数の民間人がバルト海を渡ってドイツ本土へ常時送り返されていた。
これは「ハンニバル作戦」と呼ばれていたが、ヒトラーの了解を得ないで進められ、クールラント以外のケーニヒスベルク(現カリーニングラード)の避難民も多数含む、最大200万人のドイツ人がソ連の抑留から逃れた。

最期まで戦い抜いたドイツ軍

補給も薄く15万人の犠牲を出しながらも戦い続けた

ドイツ降伏までクールラントに対してソ連は6回の大規模攻撃を仕掛けた。
ドイツ側は海路の補給に頼り、追加の重装備は得られなかったので効果的な打撃を与えることができず、15万人超の死傷者を出したが、いずれも撃退した。

ソ連はクールラントでの失態を隠そうとする

スターリンが自身のメンツを気にしたか

これにつてソ連側は、ベルリン方面への攻勢軸を重視したためで、積極的にクールラント・ポケットを攻撃する意図はなかったとしている。
一方、ドイツ、ラトビア側はスターリンがクールラント半島へ度重なる攻撃を命じたとしている。
事実、6回の戦闘で生じたソ連軍の捕虜・死傷者数は約38万名に上ると推定され、ソ連側が地形、天候をあまり考えずに攻撃してきたためとはいえ、誤魔化せる数ではない。

ベルリン陥落後、クールラントも降伏

クールラントはドイツ本国のベルリンが陥落するまでドイツ軍によって保持され、陥落後の1945年5月9日〜12日にかけてソ連軍に対し降伏した。
将兵14万408名が降伏し、これにソ連から見て「裏切り者」とされた約1万4000名のラトビア人も加わる。

大量の物資をソ連が接収

同時に引き渡された物資は、航空機75機、戦車・自走砲307輌、火砲1427門、迫撃砲557門、装甲兵員輸送車219輌、車輌4281輌、馬1万4056頭であった。


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