1944年6月6日、連合国軍が総力をあげたドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦「ノルマンディー上陸作戦」が行われた。
対ドイツへの支援としてスターリンが熱望したアメリカ参戦である。
作戦当日だけで約15万人、作戦全体で200万人の連合国兵員がノルマンディー海岸に上陸した。
この作戦が第二次世界大戦において連合国側を勝利に導く事になる。
ノルマンディー上陸作戦を簡単にまとめる。
アメリカは、第二次世界大戦参戦後のイギリスとの協議の結果、「最初にドイツ、次に日本」という連合国の戦争に関する大方針を決定した。
そこで、ソ連を援護する第2戦線を西部に築くため、「スレッジハンマー作戦(小規模なフランス上陸作戦)」や「ラウンドアップ作戦(北フランス上陸)」を企図したが、ドイツが予想以上に強く「外から埋める」戦い方に変更された。
北アフリ力を経てイタリアへの上陸を先行させ、フランスへは史上最大規模の上陸作戦「オーバーロード」を、1944年6月6日に実施する運びとなった。
一方ドイツ軍も、連合軍はいずれ英仏海峡を渡りフランスに上陸してくると予想しており、海峡の幅が一番狭いカレー地区に「大西洋の壁」と称される沿岸防御陣地群を重点的に構築。
海峡の幅がカレーよりも広く海岸が遠浅のノルマンディーは「第2の防衛地区」として、カレー地区より防御陣地群が少なかった。
ヒトラーは、北アフリカの戦いで勇戦むなしくしたロンメルを、ノルマンディー方面のドイツ軍司令官に任命。
彼は精力的に防御陣地や防御手段の構築を推進させた。
副官とそれらの施設を視察している際、ロンメルは「上陸当日は敵にとっても我々にとってもいちばん長い日になるであろう」という有名な言葉を残している。
連合軍は、ドイツ側を混乱させるべく、カレーに上陸すると思わせるための欺騙工作を行ったり、架空の軍団が存在するように見せかけたりした。
ドイツ軍側に猛将として恐れられていたアメリカのバットン中将は、イタリア戦線で下級兵士に暴力をふるったためノルマンディー上陸第1波の指揮官からは外されていたが、彼が率いる架空の第1軍集団の司令官として欺騙に貢献している。
連合軍は、この「オーヴァーロード」作戦に兵員約300万人、車両約5万5000輌を投入した。
この大軍を、各種艦船約6000隻を動員した巨大海上作「ネプチューン」をもって輸送。
また、約1万4000機の航空機も作戦に参加した。
これは現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦であった。
当日は、天候不良で予定通りの作戦の実施は危ぶまれたが、月齢の問題などもあり、ヨーロッパ派遣連合軍最高司令官アイゼンハワー大将は「君では行こう!」と決行を決断。
上陸作戦前夜の5日深夜から6日未明にかけて、アメリカの空挺師団が上陸予定地域の西翼、イギリスの空挺師団が東翼に降下し、上陸を援護するための空挺堡を確保した。
6日早朝、ドイツ軍の沿岸防衛施設に対する熾烈な艦砲射撃と爆撃の後、地上部隊の上陸が始まった。
ノルマンディー海岸は、西から東へアメリカ軍が上陸する暗号名ユタとオマハの二つの上陸海岸、それに隣接した東側にイギリス軍が上陸するゴールドと、カナダ軍が上陸するジュノーが続き、最東端のイギリス軍が上陸するソードの計5つの上陸海岸が設けられていた。
連合軍はこの日のために、シャーマンDD浮航戦車、チャーチルAVRE工兵戦車、シャーマン・クラブ地雷爆破戦車といった特殊な戦車を開発。
これらの戦車は第1波の上陸部隊に同行して援護にあたった。
また、精鋭のレンジャー部隊空挺部隊が特に危険なドイツ軍の砲台を攻撃して無力化し、上陸部隊を運ぶ艦艇が晒されないようにした。
にも関わらず、特にアメリカ軍担任のオマハ海岸ではドイツ軍の防戦が激しく、多大な死傷者が生じたため、以降、「血のオマハ」という言葉が大出血の代名詞となった。
上陸してきた連合軍に対し、防御陣地の守備隊だけでなく装甲師団も反撃に参加すれば、ドイツ軍はより効果的な上陸阻止ができたかも知れない。
しかし装甲師団は、ヒトラーの許可なく出動させることはできない。
しかも前夜の空挺降下が行われていた際は、やっと寝付いた不眠症のヒトラーを気遣って誰も起こさなかった。
これが、ドイツ軍が反撃のためこの貴重な時間を失った原因のひとつともいわれる。
かくして「いちばん長い日」は終わり、作戦は成功。
連合軍はヨーロッパ本土に足場を獲得したのだった。