香港島攻略戦

香港島の攻略作戦

1941年12月8日から12月25日にかけてイギリス領香港島で行われた戦い。
交戦勢力はイギリス・カナダ軍で、日本側の勝利に終わった。

香港の英軍、18日間で降伏

諜報活動を行った上、万全な体制で挑んだ日本軍

イギリスの植民地・香港島とその対岸九龍半島に対する攻略は、開戦日(昭和16年12月8日)の午前3時過ぎから始まった。
第23軍の第38師団15000名は九龍半島の国境を越えて、英軍トーチカ群に突入した。
戦前の情報によれば、そこには約150ヵ所の堅固な要塞があり、その詳細な地図も諜報活動の末、手に入れていた。
それだけに、陸軍としては最強を砲兵部隊を集めて第一砲兵隊を編成し、指揮官も砲兵の権威とされていた北島驥子雄(きたじまきねお)中将を当てるという物々しさで挑んだのだった。

比較的、要塞は脆弱だった

しかし、実際に戦闘に入ってみると、要塞の数はそれほど多くなく(占領後の判明では予想の約四割)、強力な火砲を備えているものも多くなかった。
そればかりか、第228連隊の若林東一中尉が率いる尖兵中隊(敵情偵察部隊)の、命令無視ともいえるような独断突撃で、その重要な一角が破れ、後続部隊を引き入れて突破してしまった。
そのため、第一砲兵隊は一発の砲弾も撃つ必要がなかった。

香港島へ上陸

要塞の堅固さと火力の強力な点では香港島の方が大きかった。
守備部隊の約12000名は、大英帝国のメンツにかけて、6カ月は抵抗する予定だったという。
香港島上陸に先立ち、第一砲兵隊は12月15日、九龍半島に対面している海岸要塞を一斉に砲撃、3日間で2000発を撃ち込んだ。
しかし、その裏側、南側海岸沿いの多数の砲台は殆ど手つかずであった。
陸海軍の航空隊も出動し、香港の各軍需施設と砲台を破壊、第二遣支艦隊も駆逐艦3隻程度の英海軍を攻撃した。

日本軍の砲撃で重油タンクが黒煙を上げる中、香港の港に突入する日本軍部隊
日本軍は開戦1年前に香港占領を企てたが、英米との本格的戦争につながるとして、見送った経緯がある

第38師団の三個連隊は18日、三方向から上陸を開始、各地で激戦を交えたが、英軍は予想以上の抵抗を示した。
例えば、ニコルソンの要塞を攻撃した日本軍部隊は600名の死傷者を出し、赤柱半島の要塞は二個連隊で攻略したが、どうしても陥落させる事は出来なかった。

香港島攻略戦の様子

香港島攻略戦の様子

突然の英軍降伏

こういった各地の膠着状態の中で、25日、ヤング総督モルトビー少将は突然、降伏を申し入れた。
日本軍にニコルソン山貯水池を抑えられ、水不足が現実の問題になっていたというのが直接の原因だったが、市民が続々と対岸の九龍半島への脱出を始めていた事も、英軍の交戦意欲を削いだのだった。

戦死・戦傷者数

香港攻略戦で捕虜となった英軍は約11000名、このうちイギリス人5000名、次いでインド人4000名、カナダ人が2000名弱だった。
日本軍が確認した英軍戦死者は約1500名だが、日本軍は約700名が戦死、戦傷者は約1400名だった。


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