春の目覚め作戦

春の目覚め作戦

一発形勢逆転を賭けた無謀な作戦

すでに負け戦の空気がただようドイツ軍

1945年3月6日〜1945年3月15日

首都が風前の灯にもかかわらず、ヒトラーは新たな反攻作戦を命令した。ソ連の南方攻勢軸をへし折り、ハンバリーを引き留め、石油も確保しようという一挙両得の作戦だった。 しかし、ドイツが置かれた状況を見るとお世辞にも現実的とは言えない策なのだが、総統の暴走を止めるものはなく、作戦は実行に移される。
ドイツ軍内部には濃厚な負け戦の雰囲気が既に漂っており、軍はヒトラーの死守命令を無視して退却、作戦は失敗に終わる。

首都付近までソ連軍が迫り、ドイツは危機

ベルリン陥落まであと4ヶ月

バグラチオン作戦(1944年6月22日〜8月19日)の後、ソ連はしばらく大攻勢を控えていたが、翌1945年1月12日よりヴィスワ川を渡って東進するヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。
ここでもソ連軍は163個師団、220万3000名の兵を集めて数で叩き潰しながら、ベルリンの東70キロのオーデル川に到達した。

ソ連への反撃を考えていたヒトラー

ヒトラーは追い詰められ夢想に走る

このような状況下でありながら、ヒトラーはハンガリーでソ連に逆襲する作戦を夢想していた。

ブダペストはソ連が占領、クロアチアは枢軸国側

ハンガリー首都ブダペストはヴィスワ=オーデル攻勢と同時期にソ連側の手に落ち、南北に流れるドナウ川を渡ったソ連ウクライナ第3方面軍が、バラトン湖を天然の要害として利用し、45万の兵力が湖の向こう側に陣取っていた。
その地の南辺はドラーヴァ川を隔てて枢軸側のクロアチアであり、ちょうどウクライナ第3方面軍が枢軸側に張り出した格好となる。

一石三鳥を目指した「春の目覚め作戦」

貴重な油田を守りたかったヒトラー

そしてバラトン湖の南西には、ナジカニジャ油田がある。
ルーマニア降伏でプロイェシュティ油田を失った今となってはドイツにとって貴重な油田であり、そこから約30キロの地点にまでソ連軍が進出しているのは、ヒトラーにとって我慢がならなかった。

軍部はベルリン防衛を進言したが…

ソ連軍がベルリンに迫っている状況であり、当然ながら首都防衛を進言するドイツ参謀本部の反対を押し切り、ヒトラーはハンガリーにいるソ連軍をドナウ川の東岸に追いやり、石油の安定供給も図る「春の目覚め作戦」の実行を命じる。

独ソの戦力差(現実)は無視

楽観的、希望的な観測に基づく進攻作戦

作戦はバラトン湖北岸から入り、途中分岐してブダペストとドナウ川への到達を目指すSS第6装甲軍、バラトン湖南岸から東進して圧迫する第2装甲軍、東西に流れるドラーヴァ川を渡河して北上し南から圧迫するE軍集団がドナウ川を背にして逃げられないウクライナ第3方面軍を3方向から包囲殲滅し、かつブダペストにも手を伸ばす野心的なものであった。

春の雪解けが味方することを期待したドイツ軍

ちょうど春の雪解けで路面の状況が悪化することでソ連戦車の機動が阻まれ、独ソの機甲戦力の差は縮まるとの目論見もあった。

防衛戦力まで攻勢に回してしまう

歩兵が不足し、水兵を歩兵とし配置していた

だが作戦の主役であるSS第6装甲軍は、その直前に参加した「バルジの戦い」こと1944年12月の「ラインの守り作戦」で大きく損耗しており、海軍の水兵を歩兵にしてまでも兵力を集め戦力を補充・再編成している最中であった。

装備も士気も底をついていたドイツ軍

南から圧迫するE軍集団は、本来は占領地の警備が目的の軽装歩兵が中心である。
装備、錬度、士気のいずれも不足した状態であったが、ドイツはベルリン防衛の戦力から抽出してまでも2月の末までに約14万人の兵力をかき集め、配置に付けた。

残り貴重な戦車部隊も回す

戦力不足を補う切り札として、ティーガー2を装備するSS第501重戦車大隊や第509重戦車大隊も呼び寄せられている。

作戦開始、ソ連軍は的確に対応してくる

1945年3月6日に作戦開始

作戦開始は3月4日が予定されていたが、天候や鉄道の故障により何度延期され、5日夜にドラーヴァ川南方のドイツ軍集団が攻撃を開始。
しかしバラトン湖側のドイツ軍は、続く悪天候からさらに延期され6日に開始された。

ドイツ軍の動きを冷静に観ていたソ連軍

ベルリンが包囲されつつある中、まさか攻勢に出るとは思っていなかったソ連軍は虚を衝かれた形ともなったが、一方でドイツ側の怪しい動きをつかんでおり、ウィーンへの進撃準備とともに縦深10〜15キロになる対戦車陣地(パックフロント)を構築して備えていた。

ソ連軍から待ち伏せされるドイツ軍

ソ連軍はウィーン攻勢をいったん中止し、第6親衛戦車軍を含む増援部隊を焦点となる第3ウクライナ方面軍に派遣し、バラトン湖の北東にあるヴェレンツェ湖の北側に置いて、ブダペストに向かうドイツ軍を南東から挟撃できるようにした。
またドナウ川の両側に備蓄を置き、フェリーやポンツーン橋、パイプラインがドナウ川に設置され、包囲下の補給路を確保した。

死力を尽くした一大攻勢も目標には遠く届かず

30キロだけドイツ軍が前進

7日と8日の戦闘でSS第6装甲軍隷下のSS第1装甲軍団はサルビッツ運河西方のソ連軍陣地を突破して30キロ前進し、シモントルニャ(バラトン湖東端から南東40キロ)まで進出した。
さらに11日夜には、ドイツ軍は運河南方に2つの橋頭堡を確保した。

春の雪解けに進行を阻まれるドイツ軍

一方、バラトン湖南岸へ侵入する予定であった第2装甲軍はソ連軍の猛攻の前に8キロしか前進できなかった。
ソ連戦車の機動を阻むと期待した春の雪解けは、等しくドイツ軍車輌の機動も妨げ、当初構想していた機動戦は実現できなかったのである。

ソ連の反撃でドイツ軍の前進は止まる

13日になると、ソ連第3ウクライナ方面軍が反撃を開始。最も進出していた第1装甲軍団がその矢面に立たされた。
同様にバラトン湖南を東進する第2装甲軍も南方から圧迫するはずのE軍集団も、反撃で前進が止まった。

ソ連のウィーン作戦

8万8000の兵力によるソ連軍の逆襲

そしてソ連は温存していた3個の親衛軍…第6親衛戦車軍、第4親衛軍、第9親衛軍(総計8万8000名)をブダペスト南西に集結させ、16日に第4と第9の親衛軍で以てウィーン作戦を発動した。

戦力差は大きく、ドイツ軍は太刀打ちできない

ブダペスト西方で警備にあたっていたハンガリー軍は蹴散らされ、同じく南西の警備にあたっていたSS第4装甲軍団は激しい攻撃に晒された。
もしSS第4装甲軍団が突破されたら、バラトン湖の北を回り込んで展開していたドイツ第6軍とSS第6装甲軍が包囲されてしまう。

包囲寸前に陥るドイツ軍

軍部が勝手に作戦を中止、総統命令を無視

18日に南方軍集団司令官のヴェラー将軍はついに作戦の中止を命令。
ヒトラーは進出地点での死守命令を出したが、それを無視して西方への退却を始めた。

間一髪で退却には成功したドイツ軍

20日にSS第6装甲軍の最後の部隊がバラトン湖から撤退した直後、同日に切り札として投入されたソ連第6親衛戦車軍が到達し、間一髪で虎口から脱した。
この時の彼我の距離は3000メートルしかなかったという。
他の部隊も22日までに同様に撤退し、ウィーン攻勢のソ連軍に追い立てられるようにオーストリアまで後退した。

多大な犠牲を出し、戦線は100キロ後退

結局この作戦で、ドイツはソ連軍に死傷者3万2899名、戦車152輌、火砲415門の損害を与えたが、死傷者1万2358名と約600〜700輌の装甲戦闘車輌を失い(戦闘で失われたのは31輌)、作戦開始時より戦線が100キロも後退した。
何より装備・人員が充実し、士気が高いとされていたSS第6装甲軍の壊滅は痛かった。

ヒトラーの暴走、負け戦の雰囲気

ドイツ側では分裂がすすむ

バラトン湖畔からの撤退はスターリングラードやバグラチオン作戦のように包囲殲滅されて、徒な人員の損耗を避けるために総統の死守命令を無視したのだが、ヒトラーは自分に忠誠を誓った武装親衛部隊が命令を無視したことに怒り、彼らの名誉の象徴であるカフ・バンド(袖章)を剥奪した。
ヒトラーの古くからの側近だったSS第6装甲軍司令官ヨーゼフ・ディートリヒSS上級大将はこの決定に怒り、失望の証として自分の全ての勲章とカフ・バンドをまとめてヒトラーに送りつけたという。

兵士らは既に敗北を認識していた

また第6軍司令官だったヘルマン・バルク大将はこの戦いで以下のような報告をしている。
「軍隊の戦いぶりは、もはや本来あるべき姿ではない。兵士達はとにかく戦争に負けたと言い、終戦直前に死ぬのはまっぴらごめんだと思っている。誰もが包囲されることを恐れ、その恐怖は高級司令部も冒し始めている」
バルク大将の部隊はこの撤退の際に、ソ連軍に包囲されて一日半身動きが取れなくなっているので、この時の経験も反映していると思われるが、戦争末期の負け戦の空気感はすでに蔓延していたのが覗える。

自国内の焦土作戦「ネロ指令」

追い詰められたヒトラーの狂気

なおヒトラーは3月19日、「自分を裏切ったドイツ国民は歴史上の偉大な使命を果たすに値しない」として、全ての社会産業基盤を破壊する指令「帝国領域における破壊作戦に関する命令」(通称ネロ指令)を出した。

この命令は自国内における「焦土作戦」を命令するもので、かつてローマを自ら焼いたという伝説があるローマ皇帝ネロになぞらえて「ネロ指令」と呼ばれる。


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