1941年9月12日〜1942年7月3日
19世紀のクリミア戦争に続き、20世紀の独ソ戦でもセヴァストポリ要塞は激戦の舞台となった。
難攻不落の要塞を巡り、クリミア半島において攻防戦が繰り広げられた。
要塞の攻略には、超巨大な重砲が投入され猛威を振るった。
ドイツ軍の猛烈な砲撃爆撃により防塁は粉砕され、難攻不落のセヴァストポリ要塞はついに陥落する。
クリミア半島の南端に位置するセヴァストポリ要塞は、南下政策をとるロシア帝国によって建設された。
黒海に面し、ロシア黒海艦隊の母港として戦略上重要な同地を巡る争いは歴史上幾度となく繰り返されている。
19世紀、オスマン・トルコ、フランス、イギリスと戦ったクリミア戦争でも難攻不落の要塞として激戦の舞台となった。
そして20世紀の独ソ戦でも、再び激戦が繰り広げられることとなった。
「バルバロッサ作戦」の計画では、当初クリミア半島について言及されていなかったが、開戦後にソ連軍爆撃機がセヴァストポリからルーマニアのプロエシュチ油田に爆撃を行ったため、ヒトラーは、クリミア半島とその南端のセヴァストポリの占領を命じた。
1941年9月12日、ドイツ軍第11軍がクリミア半島の入口、ペレコプ地峡へ達するが、第11軍司令官オイゲン・フォン・ショーベルト上級大将が前線視察中に搭乗していた偵察機が墜落、戦死してしまう。
後任の司令官には、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン大将が就任した。
10月25日、第1軍はペレコプ地峡を突破した。
その後、セヴァストポリに向けて前進し到達すると、12月17日、セヴァストポリへの攻撃を開始した。
しかし、ソ連軍が構築した陣地は堅く守られ、ドイツ軍は数メートル単位での前進に留まった。
12月30日、ようやくセヴァストポリ北東に位置する重要拠点「スターリン砦」に迫った。
ソ連軍は、ただちにクリミア半島を侵攻中のドイツ軍への反撃を開始した。
すこし戻って12月26日、クリミア半島東部のケルチ半島に第51軍が上陸、続いて29日、第44軍がケルチ半島の付け根フェオドシアに上陸した。
ソ連軍の反撃に対し、ケルチ半島守備に就いていたドイツ軍第42軍団は、軍団長の独断により撤退した。
マンシュタイン大将は、ケルチ半島奪回のため、12月31日、セヴァストポリへの攻撃を中止させた。
翌年の1942年5月8日、マンシュタイン大将は、セヴァストポリ攻撃の後顧の憂いを取り除くため、ケルチ半島での攻勢を開始、10日足らずでケルチ半島からソ連クリミア方面軍を一掃した。
これにより、ドイツ軍はセヴァストポリ攻撃に専念することが可能になった。
強固に守られたセヴァストポリ要塞攻略のために、ドイツ軍は巨大な重砲を投入した。
これらにはそれぞれ「ガンマ」「カール」「グスタフ」という名が付けられた。
「ガンマ」は口径42
センチ臼砲、1トンの砲弾を14キロ先まで飛ばし、「カール」は口径61センチ自走臼砲で2トンの砲弾を4キロ先に放ち、「グスタフ」は口径80センチ列車砲で砲身長は32メートル、7トンの砲弾を38キロ先まで飛ばすという、恐るべき威力であった。
一方、セヴァストポリにも、ド級戦艦の30・5センチ連装砲塔を流用した砲台が設置され、ドイツ軍からは「マキシム・ゴーリキー」と呼ばれ恐れられていた。
6月3日、ドイツ軍は砲撃と空軍による爆撃を開始した。
砲爆撃は5日間にわたり続行された。
6月7日、ドイツ軍部隊が突入すると、両軍の間で激戦が繰り広げられた。
6月17日、マキシム・ゴーリキー砲台が破壊され、6月20日、スターリン砦が占領された。
ソ連軍は、海路から増援を送ったが、7月1日、セヴァストポリ防衛司令官兼黒海艦隊司令官フィリップ・オクチャーブリスキー提督がセヴァストポリを脱出すると、7月3日、セヴァストポリ要塞は降伏した。
ドイツ軍第11軍の損害は、死傷者3万5000名を超え、ソ連軍は9万7000名の捕虜を出した。