中国戦線とは1937年から1945年にかけて大日本帝国と中華民国・中国共産党軍とので行われた戦いで、一般には「日中戦争」という。
日本が第二次世界大戦・太平洋戦争においてアメリカ(連合国軍)と交戦中、中国でも戦争が行われていた。
日本の敗戦後、旧日本軍が解体されるまで、戦争が続いていた。
現在では、「中国」といえば、中国東北地方(黒龍江、吉林、遼寧の三省)を含むのが一般的である。
しかし、太平洋戦争当時は、もともと中国という呼称は一般的ではなかった。
日本では伝統的に「支那(しな)」と呼んでおり、その地域は万里の長城から南を指していた。
現在の東北地方は、いわゆる、かつての満州であり、日本は満州事変(昭和6年(1931年))を起こして「満州国」という傀儡国家を作っていた。
満州に関東軍という大きな軍団(兵力約80万)が派遣されていたが、支那には支那派遣軍という関東軍以上に大きな軍団が編成されていた。
昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を切っ掛けとして始まった日中戦争(戦争といえばアメリカから石油を変えなくなる恐れがあるため、戦争といわず日米開戦まで「支那事変」と呼んでいた)で、次々に兵力を増大させ、太平洋戦争開始の頃には、90万以上の膨大な日本軍が北から南まで展開していた。
支那派遣軍(司令部・南京)は北支那方面軍(北京)・第11軍(漢口)・第13軍(上海)・第23軍(広東)に分かれていた。
日本の後押しで汪兆銘(おうちょうめい)を首班とする傀儡政権(国民政府の南京遷都と称した。本来の蒋介石の国民政府は重慶に逃れていた)が南京にあったので、支那派遣軍の司令部も南京に置かれていた。
しかし、それほどの大兵力を展開しても武力で中国を屈服させる事は出来なかった。
かと言って、中国軍も日本軍を追い出すほどの実力はなかった。
太平洋戦争が始まると、関東軍はソ連を刺激しない為に「静謐確保(せいひつかくほ)」を指針とし、あらゆる作戦を自粛した。
支那派遣軍も基本的にはあまり大きな攻勢を行わないという立場を取っていた。
いわゆる支那には蒋介石の国民党軍と、毛沢東指導の中国共産党軍(中共軍)がそれぞれ別個に日本軍と戦っていた。
しかし、中共軍の方が圧倒的に抗戦意識が高く、蒋介石は英米からの軍需物資を、将来の中共軍との内戦の為に温存しているとして、英米から強い批判を受けていた。
中共軍の根拠地は延安にあり、その戦力は大行山脈(河北省と山西省の境)や大別山脈(湖北省と安徽省)に拠って、広い範囲に農村解放区を造り、主としてゲリラ戦で日本軍に挑んだ。
こうした中共軍(八路軍とも。いわゆる国共合作で中共軍が国民軍の第8路軍となった事がある事から)との戦いは、地理的に言って主に北支那方面軍や第11軍の役割だったが、その掃討戦はしばしば「三光(中国語であり、日本語ではない)」を伴ったという。
光は「〜し尽くす」の意味で、殺し尽くし、、焼き尽くし、奪い尽くすのが三光である。
ある村が解放区と判断されると、村に貯蔵してる食糧を奪い尽くした後、村ごと焼き尽くされ、捕らえた村人を殺し尽くしたといわれる。
後年のベトナム戦争におけるソンミ事件は中国の戦場では珍しい事ではなかった。
ただし、日本軍には「三光作戦」「三光政策」といった作戦名はなかった。
支那派遣軍は、昭和19年4月から翌年初めにかけて、その総力を挙げて大陸打通作戦を実施した。
京漢(けいかん)線(北京〜漢口)、粤漢線(漢口〜広東)、湘桂線(衝陽〜桂林)の鉄道を回復させると共に、沿岸の大都市、長沙・衝陽・桂林などを占領し、その周辺に建設された数多くの米空軍基地を破壊占領したのである。
参加兵力約50万という大作戦だった。
ただし、鉄道を回復打通したとは言っても、ただの一度も通しで列車が走った事はなかった。
米空軍は好きなところを爆撃して、鉄路を寸断できたからである。
この作戦は、前年11月末、江西省遂川から発した米空軍B24爆撃機が台湾の新竹を空襲した事に驚いた大本営が構想したものだった。
既にアメリカはB29という長距離爆撃機の開発に成功した事を公表しており、それらが中国の航空基地に配備されたら、日本本土への空襲が実施される事を恐れたからである。
しかし、実際には作戦中の6月24日、四川省成都から発進したB29(32機)が八幡市(現北九州市)の空襲に成功し、鉄道沿線上の飛行場破壊が無意味である事が分かった。
B29の日本本土初空襲の成功が伝わると、重慶放送は繰り返し放送し、市内では爆竹が鳴らされ、歓喜の渦が巻き起こった。
ワシントンでは折から開会中の議会でこのニュースが朗読された。
この時、日本軍は衝陽を包囲し、方先覚軍の予想外の頑強な抵抗に手こずっていた。
衝陽線は打通作戦中の最激戦地で、日本軍死傷20000名、中国軍戦死者4000名の損害が出た。
11月24日、サイパン発のB29(80機)が東京をはじめて空襲した。
既に米軍はレイテ(フィリピン)に上陸し日本軍を撃破しており、太平洋戦争の帰趨は明らかになっていた。
また、漢口への無差別絨毯爆撃も始まっていたが、それでも支那派遣軍は打通作戦の中止を考えようとはしなった。
大陸打通作戦は、太平洋戦争の戦局から見て、殆ど意味のない消耗戦だった。