バルジの戦い

バルジの戦い

1944年12月16日〜1945年1月25日

ドイツ軍は連合軍に制空権を握られ、さらに国境近くまで連合軍が迫っていた。
そこでヒトラーは最後の賭けともいえる奇襲作戦を指示、アルデンヌの森でドイツ軍は連合軍に奇襲攻撃を仕掛ける。
「ラインの誇り(ヴァハト・アム・ライン)」と名付けられた一大作戦で、連合側からはバルジの戦いと呼ばれた。
悪天候により連合軍が航空機を動かせない隙を狙った、戦車による奇襲攻撃で、さらに潜入部隊まで派遣する周到な作戦であった。
しかし、不運にも天候が回復、連合軍側も機敏に対応した為、作戦は失敗に終わった。
バルジの戦いについて簡単にまとめる。

連合軍に追い詰められたドイツ

国境近くにまで連合軍が前進

パリを奪還された西方戦線のドイツ軍はかろうじて9月の「マーケット・ガーデン」作戦は阻止できたが、それ以降、広正面戦略で平押しする連合軍は、ドイツの西の国境ともいえるライン川西岸に迫っていた。

連合側はドイツの情勢を正確に分析していた

また東部戦線では、6月に発動された攻勢作戦「バグラチオン」などによって東プロイセンに危機が迫っており、連合軍側には、ドイツの敗北は近いという分析もあった。

楽観論に呑まれていたヒトラー

しかしヒトラーは、ジェット機や弾道ミサイルV2などの最先端兵器各種が揃えば戦局の逆転も可能と考えており、そのための時間稼ぎと敵の弱体化の2つの要件を揃えるべく、乾坤一擲の攻勢作戦を発案。
そして消耗・疲弊した軍の再建に向けて、総力を傾けるよう指示を出した。
こうして得られた貴重な兵力を、ソ連軍より弱いと思われる西方戦線の連合軍にぶつけることにした。

形勢逆転を狙った一大作戦

ラインの誇り、と名付けられた作戦

「ヴァハト・アム・ライン」と名付けられたこの作戦は、連合軍の戦線を突破して同軍の兵站拠点ベルギーの港湾都市アントワープまで、装甲部隊を先頭に立てて突進。
同軍の戦線を北と南に分断し、北に取り残された連合軍部隊を殲滅なり海路撤退させるのが目的だった。
そしてドイツ軍は本作戦に、約20個師団を投入する。

既に制空権は連合軍が握っていた

しかし、悪天候で航空機を飛ばせず

この冬は同地を100年に一度の大寒波が襲っていた。
そのため制空権を持つ連合軍は悪天候のため航空機を飛ばせない。
そんなタイミングを狙ってドイツ軍作戦を開始した。

ヴァハト・アム・ライン作戦

アルデンヌ森林でドイツ軍が仕掛ける

1944年12月16日5時30分、アメリカ軍将兵が「幽霊戦線」と呼んでいたアルデンヌ森林の静寂が、ドイツ軍の砲撃によって破られた。
ついに「ヴァハト・アム・ライン」作戦が始まったのだ。
武装SSのパイパー戦闘団など精鋭の装甲部隊が、ケーニクスティーガーやパンターといった優秀な戦車を突進の先鋒に据えて進み、アメリカ軍の防御陣地は次々に突破された。

米軍服を着たドイツ兵を送り込む作戦も同時実行

さらに「グライフ」の作戦名で、アメリカ軍の軍服を着用したドイツ軍特殊部隊が、重要な橋梁の奪取や敵情偵察のためアメリカ軍の戦線奥深くに潜入。

捕まれば誤情報を流して扇動を仕掛ける

その一部が捕まり、ヨーロッパ派遣連合軍最高司令官アイゼンハワー大将の暗殺が計画されているといったデマも、連合軍側に流れてパニックをもたらした。

天候が回復してしまう

連合軍が空から攻撃・補給を行えるように

このとき、アメリカ軍はドイツ軍の突進に歯止めをかけるべく、急遽空挺師団までトラックで前線に派遣するなどした。
やがて天候が回復しだすと、連合軍による空からの攻撃や補給も行われるようになり、ドイツ軍の「行き足」は大きく削がれることになる。

失敗確定後も作戦は継続

それでもドイツ軍は突進を継続しようとした。
しかしアメリカ軍は、ドイツ本土に向けて突進中だったパットン中将の第3軍を方向転換させ、ドイツ軍の包囲下にあった戦いの焦点、要衝バストーニュを12月25日夕方に解囲する。

ヴァハト・アム・ライン失敗

この時点でドイツ軍は作戦の持続は不可能な戦況になっていた。
しかし、翌年1月1日、戦局の挽回を狙って、なけなしの航空機を使用して空軍による航空攻勢作戦「ボーデンプラッテ」も行われた。
だが連合軍の防戦の壁は厚く、ドイツ軍への補給は不足し損害の補充もできない。
結局、「ヴァハト・アム・ライン」作戦は失敗に終わった。

この数カ月が後の東ドイツの運命を左右した

しかし、この反撃により、連合軍の進撃は1ヶ月から2ヶ月程度の遅延をきたした。
そしてこれが、対ドイツ戦の終焉に影響を及ぼすことになる。
ここで連合軍の進撃が遅れた事で、ベルリン侵攻はソ連軍によって行われる事となり、不幸にも東ドイツは共産化されてしまう。


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