モスクワの戦い(1941年)

モスクワの戦い(第二次世界大戦)

冬の寒波の前にドイツ軍が撤退

第二次大戦の転換点のひとつとなったモスクワの戦い

1941年10月2日〜1942年1月7日

ドイツ中央軍集団に3個装甲軍を集中して、モスクワ攻略を目標としたタイフーン作戦は、冬季到来前にモスクワ占領を目指した。
三方からモスクワに進撃、あと一歩に迫ったが、100年に一度の大寒波により、ドイツ軍は文字通り凍りついた。
ポーランド侵攻から続いたドイツの快進撃はここで止まることとなる。
モスクワの戦いの経緯をまとめる。

ウクライナの大部分を占拠したドイツ軍

ルーマニア・フィンランドとともに次々に占領地を獲得

キーウでの大勝利の後、ドイツ軍の進撃は勢いを取り戻した。
南西方面軍を壊滅させたことで進撃の障害を除去した南方軍集団は、ウクライナでの進撃により、ロストフ・ナ・ドヌーそしてハリコフを占領した。
同盟国ルーマニア軍によってオデッサも占領された。
北部では、6月に同盟国として参戦したフィンランド軍に呼応して、北方軍集団はレニングラードに向けて進撃、フィンランド軍と手を結んで、レニングラードを包囲、孤立させた。

モスクワを目指したタイフーン(台風)作戦

モスクワの占領を目指すドイツ軍

南方、北方ともに戦況が安定すると、中央部ではいよいよ首都モスクワ攻略作戦が実施されることとなった。
「タイフーン(台風)作戦」の発動である。
フォン・ボック元帥麾下の中央軍集団に第2、第3、第4装甲集団が集中され、これら装甲部隊の威力をもって一挙にモスクワを攻略することを目論んだ。

1941年10月2日に作戦開始

10月1日、ヒトラーが布告を行い、翌日攻勢が発動された。

モスクワ攻防戦

3日にオリョール、6日にはブリャンスクを占領

モスクワ南東部では、ソ連軍ブリャンスク方面軍に対し攻撃を開始したハインツ・グデーリアン上級大将麾下の第2装甲集団が、3日にオリョールを占領、6日にはブリャンスクを占領し、この方面のソ連軍を包囲にかかった。

次々とソ連軍の防衛線が破られる

モスクワ西南西からはエーリヒ・ヘープナー上級大将麾下の第4装甲集団、モスクワ西部からはホト上級大将麾下の第3装甲集団が、ソ連西部方面軍の戦線を突破して前進した。
ヴァジマのソ連軍は、たちまち包囲された。
ルジェフからカリーニンを経てモスクワ北方からの攻撃と、カルーガ、マロヤロスラヴェツを経てモスクワ正面からの攻撃が予定されていた。

ドイツ軍の装甲集団に補給部隊が編入

作戦開始後の10月5日、ドイツ軍の装甲集団は装甲軍と改称された(第3装甲軍のみ、10月8日改称)。
これまで独自の補給組織を持たなかった装甲集団は、補給部隊を編入、装甲軍に昇格する形となった。

第3装甲集団と第4装甲軍が合流

10月7日、第3装甲集団、第4装甲軍はヴァジマ付近で合流して、西部方面軍の4個軍を包囲した。

降雪によって戦況が一変する

ここで天候がドイツ軍の進撃にブレーキをかけた。
10月6日から7日夜にかけて、この季節最初の雪が降った。

ドイツ軍戦車が泥るみに沈む

ドイツ軍の進撃速度が大幅に鈍化

雪は翌朝に溶けて、舗装されていない道路を泥るみに変えた。
車両のタイヤは泥にはまって走行不能になり、戦車の履帯ですら走行は困難になった。
装甲部隊の移動が困難になると、前進は歩兵部隊が主体となってモスクワへ向かったが、歩兵の膝まで達する泥の中では、やはり移動はままならず、ドイツ軍の進撃速度は大幅に鈍ったのである。

ド軍がモスクワに接近し過ぎており、ソ連も急いで態勢を整える

しかし、北のカリーニン、南のトゥーラが脅かされ、正面にもドイツ軍が接近して、モスクワは三方から圧力がかかった危機的な状況には変わりなかった。
この危機に対処するため、スターリンはレニングラードよりゲオルギー・ジューコフ上級大将を召喚、西部方面軍司令官に任命するとモスクワ防衛の全権を委ねた。

ドイツ軍の鈍化が、ソ連にとって時間の猶予となる

ジューコフは、残存部隊の再編成と再配置、全軍の規律の引き締め、防衛陣地の構築に奔走して、モスクワの防備を固めた。
防備に当てた部隊には、民兵、警察、内務人民委員部(NKVD)要員、士官学校生徒までもかき集められた。
このジューコフの必死の対抗策は、ドイツ軍が泥るみにはまって前進が停滞して生じた時間で可能になった。

徐々に寒さが増していくなかの攻防

鈍化しつつも確実に進軍するドイツ軍

10月13日、モスクワの南西160キロのカルーガがドイツ第4装甲軍によって占領され、モスクワへの圧力は依然強まっていた。

更なる気温低下が一時的にドイツ軍に有利に働く

11月15日、ドイツ中央軍集団は、攻勢を再開した。
泥るみの地表が気温低下で凍結するのを待っての攻撃再開であった。
11月24日、第3装甲軍はモスクワ北西のクリンを占領、28日にはモスクワ北側の運河を渡り、対岸に橋頭堡を確保した。

ドイツ軍がモスクワまで最接近

モスクワ北西8キロの地点まで到達

モスクワ正面への攻勢をかけていた第4装甲軍は26日、ルジェフ〜モスクワ間の鉄道中継点イストラを占領、30日には先頭を進んでいた第2装甲師団がモスクワ北西8キロのヒムキに到達した。
所属の偵察部隊がモスクワ外縁部に侵入、双眼鏡でクレムリン宮殿の尖塔を直接確認したという。
これが独ソ戦期間内で、ドイツ軍がソ連の首都モスクワに、最接近した事例であった。

いくら寒くても、ドイツ軍が侵入さえすれば占領される

南方からモスクワへと進撃していた第2装甲軍は、トゥーラの包囲にかかり、24日にはミハイロフを占領している。

真冬の寒波が到来

ナポレオンを撃退した「ロシアの冬将軍」

130年ぶりの大寒波波と豪雪

三方からドイツ装甲軍に迫られたモスクワの命運は尽きたかに見えたが、12月に入りロシアの「冬将軍」、真冬の寒波と豪雪がやってきた。
しかも、この1941年から42年の冬は、1812年、ナポレオンがロシアに侵攻した年以来の、ロシアでもめったにない厳冬であった。

ドイツ軍は冬季装備を持っていなかった

加えて、元々バルバロッサ作戦は短期決戦でソビエト・ロシアを打倒するという計画であり、ドイツ軍は冬季装備を持たずに侵攻を開始していた。

氷点下20℃から40℃にも低下

異常気象によって気温が氷点下20℃から40℃にも低下する中、前線のドイツ軍将兵は夏用の軍服で凍えるしかなかった。
ドイツ本国では冬季装備の調達を進めていたが、もちろん前線には届いていない。

ドイツ本国から離れすぎており、補給が追い付かず

そもそもタイフーン作戦開始後も、装甲軍はじめドイツ軍部隊への補給は滞りがちであり、弾薬や燃料も欠乏状態に陥り、前線の兵士が暖を取ることもままならなかった。

あまりの寒さにド軍の進軍が不可能に

ドイツ兵たちは酷寒の中で凍傷にかかり、手足の指を失う者が続出した。
歩哨中、あまりの寒さに脳髄が凍りついて凍死した兵士まで現れたという。
また極寒の異常気象は、潤滑油まで凍りつかせ、ドイツ軍の戦車や航空機の稼働を不可能にした。
かくしてロシアの「冬将軍」によって、ドイツ軍の攻撃は勢いを失った。

ソ連の反攻、極東方面からも戦力を投入

2日間で約20キロ、ドイツ軍を後退させる

11月28日、モスクワの南方、カシーラでソ連軍が反撃、2日間の戦闘の末、約20キロ前線を押し戻した。
ドイツ軍の消耗ぶりをみた西部方面軍ジューコフ司令官は、大規模な反攻作戦を準備した。
極東方面から招致したシベリア師団などの予備兵力も反攻への投入が決定された。

形成が逆転し、ドイツ軍が包囲される側へ

12月5日、イワン・コーニェフ大将麾下のカリーニン方面軍が反撃を開始して、冬季反攻の火蓋を切ると、6日にはモスクワの北側からジューコフ上級大将麾下の西部方面軍が、南側からはフョードル・コステンコ中将率いる南西方面軍が攻撃を開始した。
イェレツ西方で、ドイツ軍の2個歩兵師団を包囲するなど大戦果を挙げた。

モスクワ攻略中止

5日には、ドイツ第2、第3装甲軍は攻撃を中止しており、6日にはドイツ軍がモスクワ攻略の中止を正式に決定した。

作戦は中止するも、崩壊はまぬがれたドイツ軍

両軍の攻守は逆転、ドイツ軍は総崩れになりかねない状況に陥ったが、開戦から戦い続けた歴戦のドイツ軍部隊と、急造で編成され投入されたソ連軍部隊とは、練度に差があり、ソ連軍の冬季反攻も拙速であった。
またヒトラーから死守命令が出されたこともあって、ドイツ軍はなんとか持ちこたえ、戦線の崩壊を免れた。

ソ連軍によるモスクワ戦線全面の「冬季大反抗」のさなか、遥か極東から驚愕の一報が入った。

真珠湾攻撃、日本が対米戦争に

12月7日、ドイツの極東の同盟国、日本がアメリカに戦争を仕掛けた。
真珠湾攻撃である。

ドイツがアメリカに宣戦布告

対米戦の参戦を約束していたヒトラー

ヒトラーは、日独伊三国同盟締結時、日本側に日米開戦した場合はドイツも対米戦に参戦するとの言質を与えていた。
そこで12月11日、ヒトラーはアメリカ合衆国に宣戦布告した。

日米参戦が第二次世界大戦の転換点となった

ドイツは、モスクワ攻略中止という独ソ戦の転回点になった同時期に、アメリカという新たな敵を作り出したのである。
これがドイツにとっても日本にとっても運命の分かれ道となったことを当事者たちは知る由もなかった。

独ソ両軍の犠牲

ドイツ軍は約17万を超える死傷者

ドイツ軍のタイフーン作戦と、ソ連軍の冬季大反攻は、両軍共に大きな損害を出した。
その数については諸説あるが、ドイツ軍は約17万を超える死傷者を出した。

ソ連は60万人以上の死者

ソ連軍については、モスクワ防衛線で死者50万以上、負傷者14万以上を出し、続く冬季大反攻では、死者13万以上、負傷者23万以上を出した。
モスクワ攻略に失敗したドイツ軍が、多くの死傷者を出したのは当然だが、モスクワを守り切ったソ連軍もまた、数多くの死傷者を数え、反攻作戦でその数をさらに増やしてしまった。
そのため、弱体化したドイツ軍にさらなる追撃を加えることは不可能となった。

冬が明けるまで一次休戦となる

結果的に、両軍痛み分けという状態となり、独ソ戦は短い小康状態を迎えることとなった。


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