1943年2月19日〜1943年3月15日
スターリングラードを境に独ソ両軍は攻守所を変え、南部戦線はソ連軍の怒涛の進撃が始まった。巻き返しをはかるソ連軍はドイツに占領されたハルキウの奪回に動く。
ドイツ軍は一挙に崩壊の危機を迎えたかに見えたが、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥は、起死回生の策を繰り出した。ソ連の進撃を間隙をついたドイツ軍がハルキウとベルゴロドは再奪還、ドイツ軍が勝利を収めた。
スターリングラードで勝利を収めたソ連軍は、勢いに乗って西方への圧力を強めた。(1943年2月)
一挙にロストフ・ナ・ドヌー奪回を目指した「サトゥールン(土星)作戦」は、ドイツ軍の反撃、「ヴィンターゲヴィッター作戦」への対応のため、規模を縮小した「マールィ・サトゥールン(小土星)作戦」に変更されたが、ドイツB軍集団麾下のハンガリー第2軍、イタリア第8軍を壊滅させ、ドイツ軍の南方戦線は崩壊寸前の危機に陥っていた。
ドイツ軍に大打撃を与える好機とみたソ連軍は、「スカーチカ(疾走)作戦」、「ズヴェズダ(星)作戦」の実施を決定した。
スカーチカ作戦は、南西方面軍によるロストフ・ド・ナヌー攻略、ズヴェズダ作戦はヴォロニュシ方面軍によるハルキウ(ハリコフ)攻略が目的である。
1月29日、スカーチカ作戦が発動された。
そして31日、スターリングラードでのドイツ第6軍の降伏を挟んで、2月2日、ズヴェズダ作戦が発動された。
ソ連ヴォロニェシ方面軍は、崩壊寸前のドイツ軍戦線を突破して、8日にクルスクを占領した。
12日、戦線の後退を余儀なくされたドイツ軍は、指揮系統を再編した。
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥麾下のドン軍集団は、南方軍集団と改称された。
B軍集団は解隊され麾下の第2軍は中央軍集団に転属となった。
ニコライ・ヴァトゥーチン大将率いるソ連南西方面軍も、ドネツ川を渡河、アゾフ海に向かって進撃、カフカスから撤退中のA軍集団の退路を断とうとしていた。
14日、ロストフ・ナ・ドヌーを占領して、ブラウ作戦におけるドイツ軍のカフカスへ
の進撃路は遮断された。
A軍集団のうち第1装甲軍はロストフ・ナ・ドヌー西方へ脱出したが、他の部隊はクリミア半島に通じるタマン半島へ逃げ延びた。
ソ連軍の攻勢に対抗すべく、ドイツ軍は精鋭のSS装甲軍団をフランスから移動させ、南方軍集団に配属させた。
部隊は1月末から2月にかけてハルキウおよび、ポルタヴァに移動してきたが、到着早々にハルキウ周辺での戦闘に巻き込まれた。
ソ連軍の進撃の前に、ハルキウは孤立寸前となり、SS装甲軍団長パウル・ハウサー大将は、このままではスターリングラードの二の舞となってしまうと判断、ヒトラーから出されていたハルキウ死守命令に反して、15日にハルキウを放棄、後退した。
この命令違反にヒトラーは激怒し、ハウサー大将の降格を決めたという。
翌16日、ヴォロニェシ方面軍は、ハルキウを占領、1941年10月24日にドイツ軍が占領して以来、1年半ぶりにソ連軍が奪回した。
ソ連軍の攻勢を前に、南方軍集団司令官として、今やハルキウからアゾフ海に至る地域防衛の全責任を負っていたマンシュタイン元帥は、ヒトラーを説得して後退許可を取り付けると、2月半ばにはミウス川に防衛線を敷いた。
ソ連軍の怒涛の進撃は、止めることは不可能とおもえたが、急激な進軍は敵に大きく側面を晒すことに繋がるのが常であり、この時点でのソ連軍でも同様であった。
マンシュタイン元帥はこの好機をうかがっていた。ソ連軍の側背に反撃を加える準備としての後退であった。
2月20日、ドイツ南方軍集団は、反撃を開始した。
伸び切ったソ連軍側面に対し装甲部隊で攻撃を加える作戦である。
ハルキウ南西部のクラスノグラード南方で、ヘルマン・ホト上級大将率いる第4装甲軍が攻撃を開始、ラスノグラードからはSS装甲軍団が攻撃を開始した。
24日、ソ連軍の先頭を切って進撃していたマルキアン・ポポフ中将率いるポポフ機動集団は、SS装甲軍団の攻撃によって壊滅した。
北方からのSS装甲軍団の攻撃、南方からは第4装甲軍の攻撃と第1装甲軍の圧力により、ドネツ川西方のソ連軍突出部は挟撃された。
28日、第1、第4装甲軍は、イジュム南方でドネツ川に到達、ドニエプル川河畔のドニエペトロパブロフスク、ザポロジェに迫る勢いであったハルキウ南方のソ連軍は、退路を断たれ包囲され、あなく壊滅してしまった。
ドネツ川以西の部隊を失ったソ連南西方面軍は退却、ドネツ川の向こう岸まで下がり、河岸に沿って防御態勢を取った。
ここの段階で、スカーチカ作戦(ロストフ・ド・ナヌー攻略作戦)は潰され、失敗に終わった。
ソ連南西方面軍を撃破したドイツ軍は、ハルキウ占領後、北部に突出部を形成していたヴォロニェシ方面軍への撃滅に転じる。
3月6日、マンシュタイン元帥は北方への攻撃を開始した。
ドネツ川の解氷により戦車の渡河が不可能となり、地表の融雪により部隊の移動が困難さを増すなど天候状況が不利になっていく中、ハルキウに向けて前進し、周囲のソ連軍部隊を攻撃した。
8日にハルキウの包囲に成功すると、11日夜には、SS装甲軍団麾下の部隊がハルキウ攻撃位置についた。
ハルキウで孤立したソ連第3戦車軍は、なお数日の抵抗を見せたが、15日に最後の部隊が降伏、ドイツ軍は1ヵ月前に奪還されたハルキウを再び奪回した。
ドイツ南方軍集団の反撃の前に敗れたソ連軍では、3月15日、スターリンがゲオルギー・ジューコフ元帥(1942年12月昇級)にハルキウ北方で防衛線を再構築することを命じていた。
3月18日、SS装甲軍団はハルキウ北方のビエルゴロドを占領したが、それ以上の進撃はソ連第2軍によって阻止された。
この方面の戦線は、ドネツ川沿いに引かれることになり、防衛線となった。
マンシュタイン元帥は、さらに北方へと進撃し、フルスク付近のソ連軍突出部への攻撃を企図したが、北方に位置する中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥は、増援の要請を拒絶した。
クルスク方面への攻勢は断念したものの、マンシュタイン元帥の作戦は、見事な成功を収めた。
ドイツ軍南方軍集団は、ブラウ作戦開始時点の戦線をほぼ回復し、失われかけた占領地域を再占領、その確保に成功した。
それはマンシュタイン元帥が唱えた、シュラーゲン・アウス・デア・ナッハハント(後手からの一撃)、いわゆる「バンクハンド・ブロウ」が見事に成功したということであり、彼が名将である証左となった。
これはソ連軍がスターリングラード以来、休養や再編を行うことなく、スターリンの督促によって進撃を続け、疲弊消耗していた所にマンシュタイン元帥の巧妙な作戦手腕が発揮されたことも大きかった。
また、ソ連軍が西進するほど補給困難に陥ったのは、かつてのドイツ軍が辿った道筋と同じく、広がり過ぎた戦線を維持することが困難であったためであるまさに独ソ両軍の攻守が入れ替わったことによる逆転現象であった。
なお、ハルキウ放棄によりヒトラーを激怒させたハウサー大将だったが、ハルキウ奪回を指揮したことをはじめとする活躍ぶりで、降格などの処分は沙汰止みとなった。
3月半ばを過ぎて、ロシアの大地は泥濘期を迎え、大規模な攻勢作戦が不可能となった。 独ソ両軍は、短い休息期に入ることになる。