第二次ハルキウ攻防戦(1942年)

第二次ハルキウ攻防戦(第二次世界大戦)

ソ連がウクライナの都市奪還を目指す

ドイツ軍の反撃をうけて失敗に終わる

1942年5月12日〜1942年5月28日

前年(1941年)ドイツ軍に占領されたウクライナの重要都市ハルキウを、ソ連軍は奪回のため攻撃を開始、再びハルキウを巡る戦いが起こった。
ソ連軍はイジューム突出部からの進撃に成功するが、ドイツ軍は突出部南方からの反撃を行った。
ソ連軍による大規模な都市奪回作戦はドイツ軍の痛烈な反撃を受け失敗に終わる。
第二次ハルキウ攻防戦を簡単にまとめる。

1941年10月 ドイツがハルキウ占領

1941年10月、ドイツ南方軍集団は、ウクライナではキーウに次ぐ大都市であるハルキウを占領した。

7か月後、ソ連が奪還を目指し攻撃開始

そして1942年5月、ソ連軍はハルキウ奪回を目指して攻撃を行い、再びハルキウを巡る戦いが繰り広げられた。第二次ハルキウ攻防戦である。

後の首相ニキータ・フルシチョフが従軍

ハルキウ南方、ドネツ川西岸にはソ連軍の前線が西方に突出していた。
南西方面軍司令官セミョーン・ティモシェンコ元帥は、この突出部からの攻撃と、ハルキウ東方でドネツ川を渡河しての攻撃で、ハルキウ奪回を目指した。
ティモシェンコ元帥に政治将校として付いていたのが、戦後ソ連首相となるニキータ・フルシチョフであった。

同時期、ドイツ軍も攻撃作戦を計画していた

一方、ドイツ軍はソ連南部へ攻勢をかけるブラウ(青)作戦を計画、それに先立ち、ハルキウ南方の突出部=イジューム突出部のソ連軍を撃滅するフレデリクス作戦を準備、5月18日に作戦開始を予定していた。

1945年5月12日 ソ連が攻撃開始

開始早々つまずくソ連軍

5月12日、ソ連南西方面軍がハルキウ奪回に向けての攻撃を開始した。
しかし、ハルキウ東方のドネツ川を渡ったソ連軍部隊は、およそ20キロで前進を止められてしまった。

ボブキン作戦集団だけは快進を見せる

対照的にレオニード・ボブキン少将率いボブキン作戦集団は、南方突出部の先端からドイツ第8軍団の戦線を突破して西方へ進撃、クラスノグラードに迫った。
ソ連軍全体の攻勢が停滞する中、ボブキン少将の快進撃は際立った活躍ぶりとなった。

ドイツ軍の反撃がソ連軍にクリーンヒット

ソ連南西方面軍に先手を取られた、ドイツ南方軍集団司令官フェドーア・フォン・ボック元帥は、エヴァルト・フォン・クライスト上級大将麾下の第1装甲軍に南方からソ連軍突出部への攻撃を命じた。

ドイツ軍が逆に大きく前進してくる

第1装甲軍の攻撃は見事な反撃となり、進撃中のソ連軍南翼は、十分な防御態勢が取られていなかった。
そこを突いたドイツ軍は南方より大きく進撃、5月18日にはドネツ川西岸を確保した。

ソ連軍の複数の部隊が壊滅的打撃を受ける

ドイツ軍の反撃を受けて、ティモシェンコ元帥が、南方からのハルキウへの攻撃中止を命じた時には、アフクシェンティ・ゴロドニャンスキー中将の第6軍、クーズマ・ポドラス中将の第57軍、そして進撃の先頭に立っていたボブキン作戦集団は、ドイツ軍に包囲され退路を断たれていた。
包囲されたソ連軍部隊は、ドイツ軍の猛攻を受けて壊滅した。

戦力差を見誤ったソ連の代償は大きかった

将兵2万、戦車600以上、指揮官数名を失ったソ連軍

ソ連軍は、ドイツ軍の兵力と自軍戦力の強度を見誤った上での作戦を立案、実行に移したため、失敗は惨状を呈した。
2万の将兵、600両以上の戦車を失った上に、攻勢を担ったゴロドニャンスキー中将、ポドラス中将、ボブキン少将ら優秀な指揮官も戦死してしまった。
大粛清の影響で、指揮官層がまだまだ手薄な状況にあっては、これは何よりも手痛い打撃となった。

なお、ボブキン少将は当時行方不明とされていたが、戦後の調査で、5月26日、クトヤルカ付近で機関銃弾を受けて戦死したことが明らかとなっている。

ドイツはフレデリクス作戦を成功させた

ドイツ軍はそのままイジューム突出部を確保し、フレデリクス作戦の目標を達成した。

戦後になってスターリンを批判したフルシチョフ

戦後首相となったフルシチョフは、この作戦を命じたスターリンの戦略的錯誤を強く批判している。


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