日本本土への大空襲

日本本土への大空襲

B29による日本大空襲

1944年6月以降、日本全土で米空軍爆撃機「B29」による爆撃が始まった。
始めは軍需工場などに的を絞った爆撃のみしか行っていなかった米軍であったが、次第に無差別爆撃へと転換していく。
そして、東京・大阪・名古屋・神戸などの大都市で空襲が行われる事になる。

3000トンの焼夷弾を搭載したB29

3000トンの焼夷弾を搭載したB29

P51戦闘機

B29を護衛するP51戦闘機

北九州への空襲

スーパー・フォートレス(超空の要塞)と呼ばれたB29爆撃機が初めて日本を空襲したのは昭和19年(1944年)6月16日で、中国四川省の成都から発進して八幡・若松(現北九州市)の製鉄工場を狙ったものだった。
4500キロもの航続距離があったとはいえ、成都からは九州北部が精一杯だった。

東京への空襲

やがて米軍はサイパン、グアム、テニアンなどマリアナ諸島を占領し、11月24日、マリアナから飛び立ったB29(80機)が東京を襲った。
以後東京は、昭和20年(1945年)8月15日まで、110回を超える空襲を受けたのだった。

始めは、軍需工場に的を絞った爆撃だった

ワシントンの第20航空軍(司令官・アーノルド大将)参謀長ノースタッド少将は最初から都市の無差別爆撃を主張していたが、マリアナ基地司令官ハンセル少将(のちルメー少将)は、独自の立場で軍需工場に的を絞った精密爆撃を実施していた。
具体的には「六業六都」、つまり東京・川崎・横浜・名古屋・大阪・神戸の製鋼・飛行機工業・造船・湾口・ベアリング・電気工業の施設・工場群である。

昭和20年5月5日 空爆される呉海軍工廠に近い広海軍航空廠

空爆される横浜

昭和20年5月29日朝 空爆される横浜
写真中央下に落下する焼夷弾が映っている

より高い効果を求め、無差別爆撃へ転換

しかし、最初の東京空襲から約3カ月の間に22回出撃し、延べ2000機以上のB29を飛ばして、22000発(6ポンド徹甲爆弾換算)以上の爆弾を投下したにしては、日本の飛行機工場の生産能力は5%しか落ちていないと推定された。
もっと大きな効果を与える無差別爆撃を実施すべきだとの声が内部で高まった。
折からニミッツ大将が東京など主要都市の空襲強化を要請した。
ニミッツ軍は沖縄に上陸しようとしており、その全般的支援として、空襲強化を訴えたのだった。
戦術は無差別爆撃に転換された。

焼き尽くされた日本の都市

焼死者10万の東京大空襲

都市の無差別爆撃は夜間に進入し、高度3000m以下から焼夷弾を投下するというものである。
昭和20年3月10日午前零時過ぎから2時間半にわたった東京大空襲は、334機のB29が深川、江東など下町一帯に1600トンの焼夷弾(M29爆弾換算で60万発)を投下、26万8千戸の家を焼き、推定約10万名を焼死させ、40万名を負傷させた。
罹災者は100万名を超えている。

焼け野原となった浅草周辺

焼け野原となった浅草周辺
中に焼け残っている浅草の東本願寺、右上の森が浅草寺、右端の川が隅田川

各地で繰り返される大空襲

次いで13日夜半から14日未明にかけて大阪市が、17日午前2時半から5時前まで神戸市が、19日午前2時から5時前まで名古屋市がそれぞれ大空襲され、大阪で50万名、神戸で24万名、名古屋で15万名が住むべき家を失った。
4月13〜14日には再び東京が大規模空襲(352機)を受け、皇居の一部(大宮御所など)と明治神宮も焼失した。
翌15日も午後10時過ぎから約3時間にわたって東京と川崎市が340機によって徹底的に焼かれた。

横浜・空襲で焼け落ちた我が家の呆然とする男性

九州南部の飛行場への空爆

やがてマリアナ基地の焼夷弾は底をつき、再び全国の飛行場や航空機製作所などに的を絞った爆弾による空襲に移った。
特に沖縄戦に対する特攻基地があった鹿児島宮崎など九州南部の飛行場が集中的に空爆された。

地方都市の空襲

空襲の目的とは何だったのか?

6月から再び焼夷弾による焦土作戦が再開された。
それは工業施設を破壊するというよりも、日本の市民に最大限の精神上の効果とショックを与えようという方がもっと大きな目的で、攻撃を受けた都市のうちには、工業的意義の殆どないというもの、また単に交通上の中心というにすぎぬものが大部分であった。
(アメリカ合衆国戦略爆撃調査団編「日本戦争経済の崩壊」正木千冬訳)
6月末から8月14日までに全国55の地方都市が空襲されたが、その最大のものは8月6日の広島、9日の長崎に投下された原子爆弾であったことは言うまでもない。

若い女性勤労動員も、多く犠牲になった

米軍はこの期間に五カ所の陸海軍工廠を8回にわたって空爆した。
そのうちの一つ、愛知県の豊川海軍工廠は8月7日早朝、B29(70機)に襲われ、3000発以上の250キロ爆弾を投下された、約2500名が亡くなった。
この中には、勤労動員されていた高等女学校の生徒258名など女子挺身隊999名が含まれていた。

夕食につく豊川の女子挺身隊員たち

夕食につく豊川の女子挺身隊員たち
この女性らの多くも亡くなったと思われる

B29に対して無力だった日本

日本軍の防空体制はB29に対しては無防備に等しかった。
1万mの高度を保って進入してきたら、戦闘機はそこまで上昇するのに1時間以上かかり、例え上昇しても姿勢を保つのが精一杯だったからだ。
3月以降の夜間、低空で進入する場合は硫黄島から戦闘機が随伴していたから、それに対抗できる戦闘機部隊は、もうなかった。
昭和20年4月以降、遅まきながら高度1万mでも威力を発揮する高射砲が、東京付近を中心に全国に配備された。
そのためかどうか、4月以降の対空砲火によって延べ2000機以上に損害を与えた。
しかし、B29の爆撃機数は戦闘機によるものも含めて87機に過ぎなかった。

京都と奈良は何故、空襲を回避できたのか

こうして都市という名の付く所で大空襲を受けなかったのは札幌、盛岡、秋田、山形、新潟、長野、京都、奈良ぐらいだった。
このうち、京都、奈良は東洋美術学者ウォーナーがルーズベルト大統領に空襲回避を進言し、それが受け入れられた結果だとされているが、疑問視する声も多い。

都道府県別 空襲死者数

都道府県 死者数
北海道 835名
青森県 931名
岩手県 688名
宮城県 1170名
秋田県 73名
山形県 16名
福島県 783名
茨城県 2626名
栃木県 543名
群馬県 1109名
埼玉県 713名
千葉県 1719名
東京都 97031名
神奈川県 6637名
新潟県 1188名
富山県 2174名
石川県 35名
福井県 1758名
山梨県 1027名
長野県 32名
岐阜県 1377名
静岡県 6473名
愛知県 11324名
三重県 3600名
滋賀県 101名
京都府 111名
大阪府 11089名
兵庫県 11246名
奈良県 68名
和歌山県 1806名
鳥取県 120名
島根県 19名
岡山県 1782名
広島県 86141名
山口県 2568名
徳島県 581名
香川県 927名
愛媛県 1346名
高地県 647名
福岡県 4623名
佐賀県 225名
長崎県 26238名
熊本県 1008名
大分県 550名
宮崎県 708名
鹿児島県 3719名
沖縄県 600名
全国統計 299485名

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