大正デモクラシー

大正デモクラシー

大正デモクラシーとは、日本で1910年代から1920年代にかけて(大正時代)に起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。
大正デモクラシーの風潮のなか、力を付けた民衆は、打倒閥族政治を果たすべく社会運動を展開。
政党政治、普通選挙を実現させるが、治安維持法の制定で弾圧も始まった。

政党政治を実現させた大正デモクラシー

大正時代を通じて、普通選挙による政党政治など、民主主義の実現を求める動きが急速に発展した。
この風潮を大正デモクラシーという。

民衆が内閣を倒した大正政変

1912年末、立憲政友会(旧自由党系の政党)の尾崎行雄らを中心に始まった第一次護憲運動は、多くの民衆を巻き込んで全国に広がり、山県(有朋)閥による桂太郎内閣をわずか53日で退陣させた。
これを大正政変という。
初めて民衆の力が内閣を倒したのである。

吉野作造の民本主義

明治憲法を前提とした民主主義の徹底を唱え、普通選挙による政党内閣実現などを主張した。

原敬初の本格的政党内閣を組織

政党が勢力を伸ばし、民衆の声が政治に大きな影響を持つようになるなかで、1918年、政友会総裁原敬が首相に就任。
初の本格的政党内閣を組織した。
普選運動が大きな盛り上がりをみせたが、原は普通選挙の導入に反対した。
政党政治の腐敗に憤激したとされる一青年に暗殺されてしまった。

1932年まで、しばし政党内閣が続く

その後、非政党内閣が続き、1924年、貴族院を背景とした清浦奎吾内閣が成立すると、憲政会、政友会、革新倶楽部の3党は第二次護憲運動を展開。
総選挙に大勝し、憲政会総裁加藤孝明が3党連立内閣を組織した。
以後、1932年の五一五事件犬養毅内閣が倒れるまで、政党の総裁が内閣を組織する政党内閣が続いた。
犬養内閣が倒れた後は、海軍大将斎藤実を首相とする挙国一致内閣が成立し、政党政治は終わりを告げる。

1925年に普通選挙法が成立

大正時代は、様々な社会運動が花開いた時代でもあった。
そうした中で、1925年に普通選挙法が成立。
25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられた。
これと同時に治安維持法が制定され、打倒天皇を唱える共産主義運動との戦いも激しさも増していった。

この時代の社会運動

社会主義運動
1920年に日本社会主義同盟が結成されたが、翌年に禁止された。
労働運動
1920年、第一回メーデーが行われ、翌年には日本労働総同盟が発足。
女性解放運動
1920年平塚らいてうらは新婦人協会を設立し、女性参政権を要求した。
農民運動
1922年、賀川豊彦らが日本農民組合を結成し、全国で小作争議が激化。
部落解放運動
1922年、被差別部落の住民が差別撤廃を目的に全国水平社を結成。

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