戦時下の日本

戦時下の日本と国民の生活

第二次世界大戦(太平洋戦争)が開戦し、日本の政治体制は強化されていった。
戦争の為に全てを捧げる、国民の窮乏生活が始まる事となった。
長い戦争のなか、日本国民は苦しい生活を余儀なくされてしまう。
戦争中の日本を振り返る。
>> 戦時下の国民生活年表

日中戦争から太平洋戦争へ

国民精神総動員運動

1937年の日中戦争開戦後、近衛文麿内閣国民精神総動員運動を実施し、国民の戦争協力を求めたが、戦争の早期決着には失敗。
翌年には国家総動員法が公布され、政府は議会の承認なしで人的・物的資源を動員出来るようになった。
これにより、国民生活はあらゆる面で戦時体制に組み込まれていった。

深刻化する国民の困窮

日中戦争の長期化とともに、国民生活の窮乏ぶりは深刻なものになっていった。
1940年以降、砂糖、マッチ、木炭、米穀などが切符制、配給制となり、翌年12月の太平洋戦争開戦後は、塩や味噌、醤油、衣類などあらゆる生活物資に点数切符による総合配給制が実施された。
さらに、1942年の金属回収令によって家庭から金属類が姿を消し、木や竹、陶器などを用いた代用品が盛んに出回るようになった。

学生は工場に強制勤務

1942年のミッドウェー海戦敗北を機に、戦局は日本に不利となり、戦地での兵力や工場での労働力も不足するようになった。
翌年には大学や高等専門学校在学中の文科学生を軍に召集する(学徒出陣)一方で、残った学生・生徒を勤労学徒とし、未婚女性は女子挺身隊として、軍需工場で生産に当たらせた。

大都市から地方へ学童疎開

1944年7月、サイパン島が陥落すると、東条英機内閣は総辞職し、また、ここを基地とする米軍の本土空襲が本格化する。
これを受けて、大都市から地方へ学童疎開が始まるなど、日本の敗色は濃くなっていった。

戦時下体制の変遷年表

西暦出来事
1938年4月国家総動員法公布、戦争の為の人や物資を政府が議会を通さず統制できる。代用品として竹製ヘルメットや陶器製の熱湯を入れるアイロンなどが使用された。
灯火管制規則公布、家の明かりが漏れないように(空襲時、目標にならぬよう)、電灯が覆われた。
1939年9月国民徴用令公布、国民が強制的に徴発され軍需工場で働かされた。
1940年6月6大都市で砂糖(約360グラム/1人1ヶ月)、マッチ(約900本/1家族1ヶ月)が配給制に。
7月ぜいたく品の製造販売が制限され、町には「贅沢は敵」とする看板が立てられていった。
11月砂糖、マッチの配給制が全国で実施
1941年4月(約330グラム/1人1日)が配給制に。
10月乗用車のガソリン使用全面禁止
12月 太平洋戦争開戦
1942年4月(約200グラム/1人1ヶ月)が配給制に。
2月衣料品が切符制に(衣類は点数制で、1人年間100点程)。
味噌(約686グラム/1人1ヶ月)、醤油(約666ml/1人1ヶ月)が配給制に。
5月金属回収令発動
1943年1月英米音楽の演奏禁止、ジャズなどは敵性音楽として禁止、レコード演奏も禁じられた。
10月明治神宮苑で出陣学徒壮行会、学生は徴兵猶予年齢が引き下げられ、約7万人が軍に送られた。
12月徴兵適齢を19歳に引き下げ。
1944年8月学童集団疎開の第1陣が出発。
学徒勤労令・女子挺身勤労令公布、中等学校以上の全生徒、12〜40歳の女性が強制的に工場へ動員されるようになった。
1945年6月義勇兵役法公布、15〜60歳の男性、17〜40歳の女性は国民義勇戦闘隊に編成された。

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