竹下登内閣は1987年11月に発足、中曽根康弘から売上税(消費税)の導入を条件に次期総理として指名された。
竹下内閣は1989年4月1日に消費税3%を導入した。
ふるさと創生一億円事業を展開し、地方の発展にも寄与。
アメリカと農産物12品目自由化問題について協議し、牛肉・オレンジの輸入自由化で合意。
1989年1月7日に昭和天皇が崩御、皇太子明仁親王が即位、平成へと改元された。
当時、戦後最大の企業犯罪といわれたリクルート事件で内閣は退陣に追い込まれた。
昭和最期の内閣となった竹下登内閣についてまとめる。
竹下登が早稲田大学在学中、学徒出陣で陸軍飛行隊に所属していたとき終戦を迎えた。
戦後は地元の島根で教員をするかたわら青年団活動に励み、27歳で県議会議員に初当選、34歳のとき、衆議院選挙で島根全県区からトップ当選。
佐藤内閣の官房長官として入閣して以降、建設、大蔵大臣などを務めた。
1985年に竹下が田中派から独立して創政会を立ち上げて自民党最大派閥の竹下派(経世会)へと発展させた。
竹下が独立した事を契機に田中派は落ち込んでいった。
異母弟に竹下亘、その姻戚に小沢一郎、長女の岳父は金丸信。
1987年11月6日に内閣を発足させた竹下登総理は所信表明演説で「国民が納得して負担できるような簡素で公平な税制、本格的な高齢化社会の到来を控え、安定した歳入基盤を提供しうる税制を追求しなければならない」と、税制改革に取り組む姿勢を示した。
同時に「ふるさと創生」事業を内閣の看板に掲げた。
ふるさと創生事業とは、各市区町村に対し地域振興のために1億円を交付した政策であった。
1988年(昭和63)から1989年(平成元年)にかけて行われ、正式名称は「自ら考え自ら行う地域づくり事業」といった。
初代地方創生大臣を務めた石破茂で、石破は竹下に対して「無駄遣いではないか」と尋ねたという。
翌1988年(昭和63)1月13日に総理就任後初の訪米でレーガン大統領と会談し「国内の経済運営の3課題、構造調整・内需拡大・市場開放に全力で取り組む」と約束した。
こうして日米間での懸案事項であった農産物12品目輸入自由化問題が、GATT審査を経て、最終的には8品目について自由化することで合意に至る。
さらに、牛肉・オレンジの輸入自由化問題に取り組み、6月3日、ロンドンで行なわれたレーガン大統領との2回目の会談で、日米2国間交渉で決着させることを合意する。
その後、牛肉とオレンジは1991年4月に輸入数量制限を廃止すると発表された。
最大課題は消費税導入だった。
そのため前内閣(中曽根内閣)に引き続き宮沢喜一を大蔵大臣にすえ、官房長官と官房副長官には側近の小渕恵三、小沢一郎を置いた。
しかし、消費税国会はリクルート事件で難航する。
不動産会社リクルート・コスモス社(現コスモスイニシア社)の未公開株が、政界・官界・財界の大物たちに店頭公開前に譲渡され、しかも株購入資金まで融資されていた問題で、消費税に反対する野党は政府を厳しく追及した。
竹下は税制問題等調査特別委員会を設置し、野党対策にあたったが、与野党間の折衝はうまくいかず、11月10日、自民党は委員会で法案の単独強行採決を行ない、衆議院を通過させた。
消費税が導入されたのは翌1989年(平成元年)4月1日で、3%から始まった。
消費税導入のために大蔵大臣に置いた宮沢喜一は、消費税法が衆議院を通過した後、12月9日に辞任した。
1989年(昭和64)7日朝、昭和天皇が崩御。
同日午後の記者会見で、小渕官房長官によって新元号の「平成」が発表された。
2月24日に執り行なわれた大喪の礼には164か国、28の国際機関から弔問団が来日し、竹下は29か国の元首・首脳との弔問外交を展開する。
政財界を巻き込む大贈収賄事件に発展したリクルート事件では、前年に宮沢大蔵大臣、長谷川峻法務大臣が辞任、年が明けてからも原田憲経済企画庁長官が辞任し、4月25日、竹下総理は自らの借金が発覚したため退陣を表明、6月3日に内閣は総辞職した。