佐藤栄作内閣

佐藤栄作内閣

戦後日本の外交正常化、沖縄・小笠原の返還

佐藤栄作内閣(1964年11月9日〜1972年7月6日)は岸信介の弟・佐藤栄作首相による内閣で、前任の池田勇人の後継指名もあり発足された。
佐藤内閣は戦後日本の外交の正常化に貢献しており、主な実績として、日韓国交正常化による日韓諸問題を全て最終的に解決、戦後初の首相による東アジア(韓国・台湾・東南アジア諸国)訪問などがあげられる。
他に、小笠原諸島の返還と同時に初めて非核三原則を表明、水俣病を公害病と認定、そして沖縄返還(沖縄本土復帰)など、多くの功績を残した。

佐藤栄作の簡単あらまし

佐藤栄作は岸信介の実弟で、戦前は鉄道省に勤め、戦後は吉田茂内閣で郵政大臣兼電気通信大臣、岸内閣で大蔵大臣、池田勇人内閣で通産大臣等に就任した。
吉田茂を師とあおぎ、吉田が果たせなかった「沖縄返還」を自らの課題と位置づけ、長期にわたって取り組む。

佐藤栄作内閣発足(1964)

池田勇人より後継総裁に指名された

池田勇人から後継総裁に指名された佐藤栄作は、1964年11月9日に内閣を発足させた。

東京五輪後、日本経済は冷え込む

東京オリンピック後の10月以降、日本経済は冷え込んでいた。
1965年(昭和40)3月には、山陽特殊製鋼が当時史上最大の負債総額約500億円で倒産し、5月には取り付け騒ぎの起きた山一證券に無制限・無期限・無担保の日銀特別融資が発表された。

戦後初の赤字国債発行が閣議決定

11月1日、佐藤内閣は、歳入不足分2590億円を赤字国債で賄う為に戦後初となる赤字国債の発行が閣議決定された。
赤字国債は翌1966年(昭和44)1月に発行された。

日韓国交正常化(1965)

日韓の基本関係が調印合意

14年にわたる日韓国交正常化交渉も合意に向かい、1965年6月22日に「日韓基本条約」(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)が調印された。
日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認め、総額8億ドルの経済協力をする、引き換えに韓国は対日請求権を放棄する、というものである。

日韓両国間の問題すべて最終的に解決

これによって日本と韓国両国間の諸問題は、すべて最終的に解決した。

北朝鮮は国家と認められず

日本国内では、朝鮮民主主義人民共和国を国として認めていない事などから、反対運動が起きたが、条約はすでに韓国で批准されており、先延ばしできない佐藤内閣は12月に強行採決した。

黒い霧解散〜自民党のスキャンダル(1966)

赤字国債発行で景気回復

1966年1月、戦後初の赤字国債が発行される。
財政法では国債で国の財源不足を埋めることを禁じており、国会で赤字国債発行を認める1年限りの「昭和40年度財政処理特別措置法案」などの法律を可決、赤字国債の発行を可能とした。
赤字国債発行でようやく景気は底を打った。
次に赤字国債が発行されるのは1975年度となる。

不詳儀頻発によって支持率低迷、解散に

8月5日、東京地検は自民党代議士の田中彰治とその長男らを、国有地払い下げなどをめぐる恐喝・詐欺などの容疑で逮捕する。
この年の後半は政治家の汚職事件や不祥事が続き、これらをまとめて「黒い霧」事件と呼ぶ。
内閣支持率も下落し、佐藤は12月7日、衆議院を解散した(黒い霧解散)。

戦後初の東アジア外遊(1967)

韓国・台湾・東南アジアを首相が諸国訪問

1967年(昭和42)1月の総選挙で自民党は善戦し、第二次佐藤内閣が発足。
佐藤は6月、朴正煕大統領就任式参列のため、日本の総理として初の訪韓、秋には台湾、東南アジア諸国を歴訪する。
先の大戦で荒廃した日本の外交環境が大きく改善された。

沖縄・小笠原諸島の返還交渉も

懸案の沖縄問題とともに小笠原諸島の返還交渉も進められていた。

小笠原諸島に核兵器は持ち込ませず

返還を翌年6月に控えた12月11日の国会で、小笠原諸島の核兵器の取り扱いについて質問を受けた佐藤は「本土並み、つまり核の三原則、持たず、作らず、持ち込ませずを遵守する」と答えている。

小笠原諸島返還と非核三原則(1968)

「非核三原則」を初めて表明した

そして翌1968年(昭和43)1月の施政方針演説で「我々は核兵器の絶滅を念願し、自らも敢えてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意である」と述べた。
これが「非核三原則」と呼ばれる方針となる。

6月、小笠原諸島返還

同年6月26日、小笠原諸島が日本に返還された。

【公害】水俣病を公害病と認定

高度経済成長の副作用というべき公害

この時期、高度経済成長の副作用が「公害」という形で日本全国に広がっていた。
9月、厚生省は水俣病の公式確認から12年という歳月を経て、水俣病を新日本窒素肥料水俣工場の廃水に含まれる有機水銀による公害病であると認定した。
水俣病と新潟水俣病、カドミウム汚染によるイタイイタイ病、大気汚染による四日市ぜんそく、以上を四大公害病という。

沖縄返還が決定(1969)

沖縄効果で選挙にも大勝

1969年(昭和44)11月に沖縄返還が正式決定し、12月に佐藤は衆議院を解散する。
衆議院選公示日、佐藤総理の第一声は「私はアメリカに行き、国民各位と沖縄百万同胞の要望どおりに核抜き本土並み、72年返還を実現してきました」というものだった。
佐藤は精力的に全国各地を遊説して歩き、自民党は圧勝した。
第三次佐藤内閣は、300議席という圧倒的な「数」を掲げての組閣となった。

よど号ハイジャック事件(1970)

大阪で日本万国博覧会

1970年(昭和45)3月14日、大阪で「人類の進歩と調和」をテーマとした日本万国博覧会が始まった。

ハイジャック機事件、人命優先

31日、羽田発・福岡行きの日航機よど号が赤軍派学生9人にハイジャックされ、乗員7人、回人乗客122人が人質となった。
犯人たちは朝鮮民主主義人民共和国の平壌に向かうよう要求するが、韓国の金浦空港に着陸させられる。
ここで、機内の乗客・客室乗務員を降ろす代わりに、運輸政務次官の山村新治郎が人質となり、機長ら3人と山村次官を乗せた飛行機は、4月3日、平壌に着陸した。
佐藤内閣は人命優先で臨み、山村次官らが無事5日に帰国した際には、その手を握って感謝した。

沖縄返還協定(1971)

衛星中継を使いワシントンと東京で同時署名

1971年(昭和46)6月17日、琉球諸島および大東諸島の施政権を日本に返還することを規定した「沖縄返還協定」が、衛星中継を使って、ワシントンと東京で同時に調印された。
アメリカはニクソン大統領であった。

沖縄本土復帰を果たして退陣(1972)

沖縄返還は日米正常化の一環でもあった

翌1972年(昭和47)5月15日、沖縄の本土復帰がなされ、佐藤栄作の積年の願いは遂に実現した。
東京の日本武道館での記念式典には昭和天皇・皇后両陛下が出席し、沖縄の那覇市民会館でも式典が同時に催された。
佐藤の式辞は「戦争によって失われた領土を、平和のうちに外交交渉で回復したことは、史上きわめて稀なことであり、これを可能にした日米友好の絆の強さを痛感するものであります」であった。
沖縄返還は、日米戦争の歴史の終止符でもあった。

歴史的役割を果たし、佐藤内閣退陣

6月17日、役割を終えた佐藤は退陣を表明した。


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