中曽根康弘内閣

中曽根康弘内閣(1982年〜1987年)

三公社の民営化をなしとげる

中曽根内閣(1982年11月27日〜1987年11月6日)は日米同盟と防衛力の強化に努める親米外交を展開、当時のレーガン大統領と中曽根総理が互いを「ロン・ヤス」と呼び合う良好な関係を築いたといわれる。
総理として戦後初の韓国訪問を実現させ、また日中首脳会談(胡耀邦総書記・ケ小平ら)も開催。
日本専売公社・日本国有鉄道・日本電信電話公社の三公社を民営化させ、半官半民といわれた日本航空の完全民営化を推進。
外交問題として、中曽根が首相として初めて8月15日に靖国神社を公式参拝をした事を中国が問題視し、今に続く靖国神社参拝問題へと繋がっている。
経済問題として、プラザ合意による円高ドル安政策を採り、結果的に日本をバブル経済に突入させたと批判の声もある。
売上税(消費税)の導入も押し進めようとしたが、断念した。
中曽根内閣時代の出来事を簡単にまとめる。

中曽根康弘(1918〜2019)の簡単あらまし

中曽根康弘は戦時中、海軍主計中尉として戦地に赴き、終戦時は海軍大尉であった。
戦後は衆議院議員(第23回衆議院議員総選挙、全国最年少(28歳)で初当選)となり、GHQ批判の急先鋒となった。
岸内閣に科学技術庁長官として入閣したのを皮切りに、運輸大臣、防衛庁長官、通産大臣、行政管理庁長官などの要職に就いた。
総理就任後は「戦後政治の総決算」と「国際国家日本」を掲げ、トップダウンの行政改革を断行した。
その身の処し方から「政界の風見鶏」というのあだ名も付いた。

就任後真っ先に韓国訪問(1983)

戦後初“総理として”の韓国訪問だった

1982年11月27日に総理に就任した中曽根康弘が、最初に着手したのは外交だった。
まず韓国の全斗煥大統領に直接電話をし、総理として戦後初の韓国訪問が実現した。(佐藤栄作の朴正煕大統領就任式出席は非公式)

次にアメリカ訪問

そして中曽根は、訪韓後、すぐにアメリカを公式訪問する。
中曽根は防衛費増額の件を話す為にアメリカを訪問したが、同時に「不沈空母発言」という珍事も起こった。

米国からの防衛費7%増額要求に応じる中曽根

中曽根は事前に米国からの防衛費7%増額要求に応じるよう大蔵省に命じていたが、主計局長が報告した数字は5.1%であった。
中曽根は「国家予算とは、総理大臣が対外関係や防衛戦略を考慮して決めるものだ。大蔵省の数字の操作で決めるものではない!」と怒鳴ったとされる。
大蔵省は徹夜で予算を組み換え総理の要求に応じた。

「日米は運命共同体」とアピール

懸案だった対米武器技術供与も「武器輸出三原則」の解釈を変更し、内閣法制局と大蔵省に認めさせた。
これらの成果を携えて渡米した中曽根は「日米は運命共同体」とアピールし、関係修復へと踏みだした。
ここに「ロン・ヤス関係」が始まる
5月の米国ウィリアムズバーグ・サミットで両首脳の絆はさらに深まった。

中曽根の別荘で他国首脳をもてなす
1983年11月にレーガン大統領夫妻が来日した。中曽根は夫妻を東京都西多摩郡にある自分の別荘「日の出山荘」に招待し、茅葺き屋根の青雲堂で、自ら茶を点て、蔦子夫人の手料理で大統領夫妻をもてなした。その映像はアメリカでも放送され、大きな話題となった。この山荘にはゴルバチョフ元ソ連大統領、全斗煥元韓国大統領なども招かれ、諸外国と日本の親善を深める舞台となった。
「不沈空母」発言で野党の批判の的に
中曽根のアメリカ訪問で珍事が発生している。ワシントン・ポスト紙が、同紙会長キャサリン・グラハム会長宅で行われた朝食会にて中曽根総理が「(ソ連の脅威から守るために)日本を不沈空母化する」と発言したと掲載。中曽根は帰国後、野党や市民団体から、日本を軍事要塞化するのかなどと激しい批判を受ける。実際には「日米有事の際は、敵機の進入を防ぐために、日本列島を周囲に高い壁を持った大きな船のようにする」と言ったのを、通訳が「不沈空母」と意訳したのだといわれる。

選挙大敗で過半数割れ、連立政権で挽回をはかる

1983年10月、ロッキード裁判で田中角栄元総理に有罪判決が出た打撃は大きく、12月の衆議院総選挙で自民党は過半数割れに陥る。
中曽根は新自由クラブと連立して反中曽根の急先鋒、田川誠一代表を自治大臣に迎え、芦田内閣以来の連立政権となる、第二次中曽根内閣が発足した。

中国訪問、首脳会談(1984)

1984年(昭和59)3月には中国を公式訪問した。
周恩来首相と親密な関係にあった中曽根は大歓迎を受けた。
胡耀邦総書記・ケ小平らと会談した。

行政改革(行革)総仕上げ

中曽根内閣の最大のテーマは、鈴木善幸内閣で行政管理庁長官として取り組んだ行政改革(行革)の総仕上げである。

GHQの方針が戦後40年も続いていた

そもそも公社(日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社など)は終戦直後、経済への国の直接統制を減らして経営の合理化を進めるように求めたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の方針で、たばこ・塩などの専売を行なっていた大蔵省専売局が専売公社に、運輸省鉄道総局が国鉄に、電気通信省が電電公社に改組されたものだった。
しかし戦後40年近くが経った当時、スリム化が求められていた。

国鉄の経営健全化、民営化が急務だった

とくに国鉄は、当時、国が年間約7000億円の補助金を支給しても毎年1兆円を超す赤字を出すほど、経営が行き詰まっていた。
経営の健全化をはかるには、民営化と適正規模への分割が急務とされた。

三公社の2つを民営化(1985)

専売公社がJTに、電電公社がNTTに

1985年(昭和60)4月1日、専売公社がJTに、電電公社がNTTへと民営化した。

国鉄民営化は反対勢力が多かった

残るは国鉄だったが、当時は国鉄の分割・民営化など、誰もが無理だと思っていた。
国労・総評・社会党という反対勢力が立ちはだかり、運輸省と党内の運輸族も非協力的だった。

小鋼鉄総裁を更迭、民営化を推進

中曽根は6月24日、国鉄民営化に及び腰だった仁杉巌国鉄総裁を更迭し、12月28日、運輸族でありながら改革を唱えていた三塚博を運輸大臣にすえ、分割・民営化を推進した。

靖国神社

1985年8月15日に中曽根が内閣総理大臣としては初となる公式参拝。(翌1986年は後藤田官房長官の要望で参拝断念)
この8月15日の靖国参拝を中国が問題視し反発の声が上がり、以降、中国が伝統的に日本の首相の靖国参拝を批判して来るようになる。(中曽根以前から総理大臣の靖国神社参拝は恒例だったが、8月15日に公式参拝したのは中曽根が初めてであった。以降、中国は8月15日以外の日の参拝も問題視してくる)

プラザ合意〜後にバブル経済突入

アメリカの貿易赤字解消の為に日本が損をさせられる

同年9月22日、その後の日本の経済環境を大きく変える会合が、ニューヨークのプラザホテルでもたれた。
日本、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランスの先進5カ国蔵相による「プラザ合意」である。
アメリカの膨大な対日貿易赤字の解消に向けて、アメリカのドルを引き下げ、日本の円を引き上げることに各国が合意し、その後、日本では、空前のバブルが沸き起こる。

内需主導の国を目指す

1986年(昭和60)4月に総理の私的諮問機関である「国際協調のための経済構造調整研究会」がまとめた報告書「前川レポート」は「日本は内需主導の国際協調型をめざすべき」と記し、その後の内需振興策を支える指針となった。

衆参同日選挙に大勝、東京サミット(1986)

東京サミット(1986)

1986年5月4日から6日、東京で第12回先進国首脳会議が開催。(東京サミット)。
日本で2回目に開催されたサミット。

民意が国鉄民営化を後押し

1986年5月の東京サミットで自信をつけた中曽根は7月に戦後政治の総決算≠ニして国鉄の分割・民営化の是非を問う衆参同日選挙に臨む。
結果は自民党が304議席を獲得し大勝。
そして11月、国鉄改革関連八法が成立した。

防衛費GNP比1%枠撤廃

12月には三木内閣の時に決定した防衛費のGNP比1%枠の撤廃が決まった。

国鉄の分割・民営化が実現(1987)

JR6社と貨物鉄道会社が発足

翌1987年(昭和62)4月1日、ついにJR6社と貨物鉄道会社が発足した。
第二臨調の顔であった土光敏夫の協力のもと、世論を味方につけ、ついに不可能といわれた国鉄の分割・民営化を実現したのである。

売上税(消費税)の導入

反発大きく断念、後任に託す

中曽根が最後に成立を目指したのは、財政改革の要に据えた売上税(消費税)の導入だった。
しかし先の選挙で「大型間接税は導入しない」と約束していただけに反発は大きく、支持率は一気に降下し、中曽根は売上税導入を断念する。

竹下登を後任に指名(売上税導入が条件)

総理退任が近づくと、後任として、竹下登・宮沢喜一・安倍晋太郎の3人が浮上する。
後継選出を総理に一任することが決まると、中曽根は、売上税導入などを条件に、竹下幹事長を次期総理として指名した。
後の消費税導入は、実質、中曽根内閣の事績といえなくもない。

中曽根内閣退陣

1987年11月6日、中曽根は総理の座を去った。
4年11か月におよぶ、当時としては歴代5位の長期政権であった。


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