67歳で総理に就任した三木武夫(1907-1988)は、1937年に30歳で衆院議員に初当選して以来、一貫して金のかからない政治を主張してきたことから「クリーン三木」と呼ばれていた。
政治資金の不足から小派閥しか形成できなかったが、片山哲内閣で逓信大臣に就任して以来、運輸大臣をはじめさまざまな大臣を歴任し、党幹事長も務めた自民党の長老であった。
官僚政治を受け身の政治だとして批判し、独自の政策ブレーンを使って政策立案を行なった総理となった。
防衛計画大綱を発表、防衛費をGNP比1%以下と決定するが、中曽根内閣で撤廃される。
田名角栄のロッキード事件発覚後、事件を究明する姿勢を見せた事で田中派の攻撃を受け、退陣に追い込まれる。
自民党の体質を色濃く現した出来事となった。
三木武夫内閣について簡単にまとめる。
自民党副総裁・椎名悦三郎の裁定によって、三木武夫は自民党総裁に決定し、1974年12月9日に衆参両議院で内閣総理大臣に指名された。
人事では、福田を副総理兼経済企画庁長官、大平を大蔵大臣、中曽根を党幹事長に据えるという挙党体制を組んだ。
三木は早速、政治資金規正法と公職選挙法(選挙2法)の改正と、自民党の総裁選挙改革を政治課題に掲げる。
翌1975年(昭和50)1月に再開された国会では、選挙2法と独占禁止法(独禁法)改正案などの審議で揉めて、党内からの反発もあって、三木としては満足のいく結果にはならなかった。
また、時間切れのために廃案になった重要案件もあった。
酒・たばこ・郵便などの値上げ法案がそれで、法案通過によって2000億円の増収を見込んでいただけに、財政面での痛手は大きかった。
国会が7月に終わると、三木は自民党内の反対勢力に対する懐柔作戦にとりかかる。
独禁法改正をめぐり対立した椎名副総裁には、9月からの臨時国会で改正案を提出しないことを約束。
党内タカ派に対しては靖国神社を「私人」として参拝することで矛先をかわし、保守派が要望していた台湾との航空路線復活を黙認した。
マスコミから「Uターン」と皮肉られた懐柔策をとる一方で、三木はフォード大統領との首脳会談のために8月にアメリカへ飛んだ。
アメリカ留学の経験もある三木は、機会あるごとに「日米友好関係の維持・強化が日本外交の基軸」であると表明していた。
フランス・ランブイエで開かれた先進国首脳会議への参加、公労協とのスト権をめぐる対立などを経て、三木政権の1年目は終わる。
1976年(昭和51)1月下旬から始まった国会で、三木は「景気浮揚に全力をあげる」と決意を表明。
だが、2月初め、ワシントンからの外電が政界に激震をもたらした。
アメリカの航空機メーカーロッキード社が自社の航空機トライスターの売り込みのために30億円もの裏金を日本の企業や右翼に渡し、その一部が日本政府高官に流れたという内容だった。
「ロッキード事件」の発覚である。
野党は衆議院予算委員会を舞台に一斉に追及を始め、審議はストップした。
三木はすぐさま真相究明を表明する。
党内ではその裏金を貰ったという高官に田中角栄が含まれることは明らかで、究明すれば党が打撃を受ける。
椎名副総裁は、田中・大平・福田と密かにに会談をもち、総選挙前に三木退陣というシナリオで合意した。
いわゆる「三木おろし」である。
しかし、この秘密会談は読売新聞にすっぱ抜かれ、「三木おろしはロッキード隠し」との批判を受けた。
6月には党内のごたごたに愛想をつかして、河野洋平ら若手議員6人が党を離脱、新自由クラブを結成した。
7月、ついに田中前総理が外国為替管理法違反などの容疑で逮捕され、再び「三木おろし」が始まる。
田中派、福田派、大平派の反主流派3派と椎名派ら中間3派の総勢270余人は、三木おろしの推進体となる挙党体制確立協議会(挙党協)を発足。
9月10日、三木総理はこれに対抗して衆議院解散を策し閣議を開くが、15閣僚が署名を拒否。
三木は解散を断念し、15日、内閣を改造して、福田・大平以外の反三木閣僚を更迭した。
最大派閥のボスをこうなる、という自民党の体質が示された。
混乱する政局のなか、12月5日に衆議院総選挙が行なわれた。
結果は自民党にとって衝撃的な大敗。
三木は退陣を表明する。
23日、福田赳夫が新総裁に選出され、翌24日、三木内閣は総辞職した。
田名角栄のせいで退陣に追い詰められてしまった三木内閣であったが、退陣の約二カ月前に防衛計画大綱を発表していた。
11月5日、防衛費をGNP比1%以下と決定する。