三木武夫内閣

三木武夫内閣

政治浄化を目指した三木内閣

67歳で総理に就任した三木武夫(1907-1988)は、1937年に30歳で衆院議員に初当選して以来、一貫して金のかからない政治を主張してきたことから「クリーン三木」と呼ばれていた。
政治資金の不足から小派閥しか形成できなかったが、片山哲内閣で逓信大臣に就任して以来、運輸大臣をはじめさまざまな大臣を歴任し、党幹事長も務めた自民党の長老であった。
官僚政治を受け身の政治だとして批判し、独自の政策ブレーンを使って政策立案を行なった総理となった。
防衛計画大綱を発表、防衛費をGNP比1%以下と決定するが、中曽根内閣で撤廃される。
田名角栄のロッキード事件発覚後、事件を究明する姿勢を見せた事で田中派の攻撃を受け、退陣に追い込まれる。
自民党の体質を色濃く現した出来事となった。
三木武夫内閣について簡単にまとめる。

三木総理誕生の裏に、椎名裁定
後継総裁の選出をめぐり、自民党は、公選を主張する大平派・田中派と、話し合いを主張する福田派・三木派の二つに割れた。党執行部は椎名悦三郎副総裁に調整を一任する。椎名は11月29日、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘と、個別に会談した。椎名が大平に、当面はつなぎの政権で、そのあとに本格的な政権をつくればいい、と述べると、大平は椎名が暫定政権に色気を出したと思い、会談後に「どうやら行司がまわしを締めて土俵に上がる気があるらしい」と発言する。翌30日、5者会談が開かれたが、進展はみられない。この夜、椎名は次期総裁を三木と決めたことを、大平以外の3人に伝えたうえで、12月1日の5者会相談で、次のメモを読み上げた。「新総裁は清廉なることはもちろん、党の体質改善、近代化に取り組む人でなければなりません。このような認識から、私は新総裁には、政界の長老である三木武夫君がもっとも適任であると確信し、ここにご推挙申しへきれき上げます」。三木は「青天の霹靂だ」とつぶやいたという。

三木内閣発足

政治資金規正法、公職選挙法、自民党総裁選を改革

自民党副総裁・椎名悦三郎の裁定によって、三木武夫は自民党総裁に決定し、1974年12月9日に衆参両議院で内閣総理大臣に指名された。
人事では、福田を副総理兼経済企画庁長官、大平を大蔵大臣、中曽根を党幹事長に据えるという挙党体制を組んだ。
三木は早速、政治資金規正法と公職選挙法(選挙2法)の改正と、自民党の総裁選挙改革を政治課題に掲げる。

内政改革は不発つづき

選挙2法と独禁法の改正はうまくいかず

翌1975年(昭和50)1月に再開された国会では、選挙2法と独占禁止法(独禁法)改正案などの審議で揉めて、党内からの反発もあって、三木としては満足のいく結果にはならなかった。

酒・煙草・郵便の値上げが廃案に

また、時間切れのために廃案になった重要案件もあった。
酒・たばこ・郵便などの値上げ法案がそれで、法案通過によって2000億円の増収を見込んでいただけに、財政面での痛手は大きかった。

党内タカ派の懐柔

靖国神社に「私人」として参拝

国会が7月に終わると、三木は自民党内の反対勢力に対する懐柔作戦にとりかかる。
独禁法改正をめぐり対立した椎名副総裁には、9月からの臨時国会で改正案を提出しないことを約束。
党内タカ派に対しては靖国神社を「私人」として参拝することで矛先をかわし、保守派が要望していた台湾との航空路線復活を黙認した。

外交

親米外交

マスコミから「Uターン」と皮肉られた懐柔策をとる一方で、三木はフォード大統領との首脳会談のために8月にアメリカへ飛んだ。
アメリカ留学の経験もある三木は、機会あるごとに「日米友好関係の維持・強化が日本外交の基軸」であると表明していた。

先進国首脳会議

フランス・ランブイエで開かれた先進国首脳会議への参加、公労協とのスト権をめぐる対立などを経て、三木政権の1年目は終わる。

ロッキード事件が三木内閣を直撃

世界的な大規模汚職事件

1976年(昭和51)1月下旬から始まった国会で、三木は「景気浮揚に全力をあげる」と決意を表明。
だが、2月初め、ワシントンからの外電が政界に激震をもたらした。
アメリカの航空機メーカーロッキード社が自社の航空機トライスターの売り込みのために30億円もの裏金を日本の企業や右翼に渡し、その一部が日本政府高官に流れたという内容だった。
「ロッキード事件」の発覚である。

三木が事件の真相究明を表明

野党は衆議院予算委員会を舞台に一斉に追及を始め、審議はストップした。
三木はすぐさま真相究明を表明する。

田名角栄のせいで「三木おろし」が始まる

「三木おろし」で事件を隠そうとした自民党

党内ではその裏金を貰ったという高官に田中角栄が含まれることは明らかで、究明すれば党が打撃を受ける。
椎名副総裁は、田中・大平・福田と密かにに会談をもち、総選挙前に三木退陣というシナリオで合意した。
いわゆる「三木おろし」である。

読売新聞が秘密会議を暴露

しかし、この秘密会談は読売新聞にすっぱ抜かれ、「三木おろしはロッキード隠し」との批判を受けた。

自民党分裂、議員が離脱

6月には党内のごたごたに愛想をつかして、河野洋平ら若手議員6人が党を離脱、新自由クラブを結成した。

角栄が逮捕され「三木おろし」が激化する

7月、ついに田中前総理が外国為替管理法違反などの容疑で逮捕され、再び「三木おろし」が始まる。

三木内閣、総辞職(12月24日)

事件隠蔽に必死な自民党

田中派、福田派、大平派の反主流派3派と椎名派ら中間3派の総勢270余人は、三木おろしの推進体となる挙党体制確立協議会(挙党協)を発足。

閣僚らも角栄についてしまう

9月10日、三木総理はこれに対抗して衆議院解散を策し閣議を開くが、15閣僚が署名を拒否。
三木は解散を断念し、15日、内閣を改造して、福田・大平以外の反三木閣僚を更迭した。
最大派閥のボスをこうなる、という自民党の体質が示された。

衆議院総選挙、三木内閣が大敗

混乱する政局のなか、12月5日に衆議院総選挙が行なわれた。
結果は自民党にとって衝撃的な大敗。
三木は退陣を表明する。

三木が退陣、福田赳夫が新総裁に

23日、福田赳夫が新総裁に選出され、翌24日、三木内閣は総辞職した。

防衛計画大綱発表(10月29日)

田名角栄のせいで退陣に追い詰められてしまった三木内閣であったが、退陣の約二カ月前に防衛計画大綱を発表していた。
11月5日、防衛費をGNP比1%以下と決定する。

防衛費1%の攻防
財政の窮迫によって防衛費の見直しが求められた政府は「当面、各年度の防衛関係経費の総額が、当該年度の国民総生産(GNP)の100分の1に相当する額を超えないことを目途とする」と決定し、初めて「GNP比1%枠」という歯止めを設定した。坂田道太防衛庁長官は「1%程度とすべき」と主張したが、大蔵省は「1%以上を投ずる余裕はない」と反対した。この枠は以後の防衛計画に大きな影響を及ぼす事になり、三木以降の内閣でも1%枠が守られたが、1986年、第三次中曽根康弘内閣で撤廃されることとなる。大きく期間を開けて、2022年5月、バイデン・岸田の日米首脳会談において、日本の防衛費がGDP比2%に引き上げられる方針が示された。引上げ財源は増税で賄われる。

三木内閣時の主な出来事年表

1974年(昭和49)

  • 12月9日 三木武夫内閣発足
  • 12月27日 総裁選改革と政治資金の規制強化・選挙腐敗の防止案を提示

1975年(昭和50)

  • 2月 完全失業者が 100万人を超える
  • 3月10日 新幹線の岡山-博多間が開通し 東京山-博多間の営業開始
  • 5月7日 イギリスのエリザベス女王夫妻初来日
  • 6月16日 三木総理が佐藤栄作元総理国民葬で暴漢に殴られる
  • 7月4日 政治資金規正法と公職選挙法改正が成立(7月15日公布)
  • 7月17日 自民党首脳が経団連など経済4団体と会談 政治献金再開で合意
  • 7月19日 沖縄国際海洋博覧会開幕
  • 8月4日 クアラルンプール事件
  • 8月15日 三木総理が靖国神社に私的参拝 終戦記念日の参拝は現職総理で初
  • 9月17日 公共事業費8000億円の追加など第四次不況対策を決定
  • 9月30日 天皇・皇后 初の訪米に出発
  • 11月2日 財界が自民党の借金100億円の半分肩代わりを約束
  • 11月16日 仏ランブイエの第一回先進国首脳会議(サミット)に出席
  • 11月26日 三公社五現業の労組がつくる公労協がスト権ストに突入

1976年(昭和51)

  • 2月4日 米上院でロッキード事件公表
  • 2月16日 ロッキード事件にかんして日本の国会証人喚問開始
  • 5月13日 「三木おろし」工作が表面化
  • 6月15日 改正民法・戸籍法を公布
  • 6月27日 米領サンファンの第二回先進国首脳会議に出席
  • 7月27日 受託収賄・外国為替管理法違反容疑で田中角栄前総理が逮捕
  • 9月15日 三木改造内閣発足
  • 10月28日 防衛計画大綱発表
  • 11月5日 防衛費をGNP1%以下と決定
  • 12月5日 戦後初の任期満了の衆議院総選挙で自民党が初の過半数割れ
  • 12月24日 三木内閣総辞職

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