1940(昭和15)年10月24日、農林省令「米穀管理規則」の公布により、生産者である農家に対して、一定数量の自家保有米を除き、残る全ての米を決められた値段で国に売る義務が課されるようになった。
これを一般に「米の供出」と呼び、戦時下、国策として強制的に農家に米をはじめ様々なものを提供させた。
戦局が悪化するにつれて厳しさを増し、戦後の1950(昭和25)年まで続けられた。
米の供出について簡単にまとめる。
戦時下の深刻化する物不足に対し、国は国策として農家にさまざまな物品を強制的に売却させる「供出」を命じた。
米・麦・蕎麦・ジャガイモ・兎(食料)、炭・薪(燃料)、馬(軍用)、藁、縄、薬草などがあげられる。
中でもひっ迫する主食の米については1942(昭和17)年に「配給の統制を行う」ことを主旨とする「食糧管理法」を制定、指定された量を必ず納めるよう割り当てた。
だが、引き換え価格の低さや農民の出征による労働力不足、さらには米作りのさかんな東北地方が水害に見舞われるなどして生産量が減少したこともあり、目指した供出量には達しなかった。
このため2年後の1944(昭和19)年に国は、より厳しい措置をとる。
それまでは、農家の飯米(一人当たりの食べ量×家族数)を差し引いた残りを供出するとしていたものを、国の割当量を先に供出させ、残りを農家の坂に回す。
もし飯米不足をきたすようであれば、国からの還元米を配給するというものである。
しかし、米を作っていながら飯米に不足したり、配給米を受けたりすることへ不満から、米を隠す農家や、供出米反対運動を起こす人も出てきたため、やはり目標量には届かなかった。
この米不足は戦後になると一層切実な事態になった。
供出量が伸びない上に、植民地であった朝鮮半島や台湾からの米の移入が途絶えたこと、復員兵や引き揚げ家族の帰国により、人口が大きく増えたことによる。
国はそこで1946(昭和21)年にさらに踏み込んだ「食糧緊急措置令」を施行する。
供出しない農家を警察が検挙するという、いわゆる強権発動である。
発動は占領軍による食糧放出や国内の農業生産事情が少し落ち着いてくる1950(昭和25)年まで続けられた。
都市に比べれば食糧に比較的余裕があったとされる農村だが、締め付けともいえる強い命令下、その実情はどうだったのだろうか。
如何に当時の農民達の声を記述する。
当時の農民の困窮ぶりが窺える証言である。
持てる物は供出に回し、わずかな白米に野菜を入れた雑炊や屑米を食べるなど、戦時下では農家の多くも都市住民と同じように苦労していたことを示す証言である。