岸信介内閣は、先の大戦で失った日本外交の信用を回復するために各地を歴訪、外交に力を入れた。(東南アジア・アジア・オセアニア・ヨーロッパ・南米など)
対等な日米安保体制の成立に尽力するが、安保条約改定には野党・国民から大きな反発が起こった(60年安保闘争)。
警職法問題・総裁選・強行採決などの強硬姿勢も目立ち、度々反発を買った。
しかし、選挙では連戦連勝であった。
岸信介内閣の動きを簡単にまとめる。(1957年2月25日〜1960年7月19日)
商工省の官僚だった岸は、1936年に満州に渡り、帰国後に東条内閣で商工大臣を務めた。
終戦後はA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監されるが、1948年に釈放された。
1952年に公職追放が解かれると政治活動を再開、1953年自由党に入党し衆議院選挙に当選、1955年に自由民主党の幹事長となる。
総理退陣後も政界に影響を持ち続け「昭和の妖怪」と呼ばれた。
実弟は佐藤栄作、長女の結婚相手は安倍晋太郎。
1957年2月25日、第一次岸内閣が成立した。
5月20日「国防の基本方針」を決定、そして岸は、最もやりたかった外交に力を入れる。
岸は5月20日に東南アジア6か国歴訪に出発、続いて11月18日、アジア・オセアニア9か国を訪問した。(5月東南アジア→6月アメリカ→11月アジア・オセアニア)
日本の現役総理がアジアを外遊したのは戦後初で、アジア外交の主な目的は「戦後処理(戦後賠償)」と「経済関係強化」だった。
訪問先に選ばれた国の多くは、太平洋戦争に巻き込まれた国々で、岸は訪問先で各国首脳と賠償や友好条約について話し合い、戦後問題に区切りをつけることで、国際社会への日本復帰を進めようとした。
最初のアジア訪問(東南アジア6か国)を終えると、次に6月16日にアメリカを訪れた。
日本の独立を果たす為に、占領時代の残滓を払い、対等の立場に立った日米関係を作ろうと考えていた岸は、「日米新時代」というキャッチフレーズを打ち出す。
この実現に向けて岸が目指したのが、日米安保条約の改定だった。
安保条約は、在日米軍の駐留や基地提供を記す一方で、米軍に日本防衛義務があるとは書かれておらず、不平等な条約であった。
アイゼンハワー大統領との首脳会談で、日米安保条約の改定に向け、安全保障に関わる委員会を設置することが決定する。
帰国した岸は、党内の足場固めのため内閣改造に着手する。
主流派の増強を目指すと同時に、財界人の藤山愛一郎を日米交渉のために外務大臣に据えた。(藤山愛一郎外相は日米安保改定と日米地位協定締結を成し遂げる)
政権強化をはかるために岸は、次に、解散総選挙に打って出る。
1958年(昭和33)5月22日、衆議院議員総選挙が行なわれ、岸は自派の勢力を拡大して政権基盤を固める。
実弟・佐藤栄作を大蔵大臣に据え、反主流派の池田勇人らも閣内に取りこみ、安保改定に向けた強力な布陣を敷いた。
9月11日、藤山外務大臣がアメリカのダレス国務長官との会談に臨み、安保条約を全面改定することで合意をみる。
岸は治安強化策の一環として「警察官職務執行法(警職法)」の改正案を国会に提出する。
これが日本社会党を中心とする勢力の反発を招き、国民を巻きこむ反対運動へと発展する。
国会審議はまったく動かず、ついに同法案は廃案となった。
12月、任期満了前に総裁選を行なおうとした岸の強行姿勢に異を唱え、池田、三木武夫、灘尾弘吉の3閣僚が辞表を提出した。
現職の閣僚が3人揃って辞任するのは、戦後初のことだった。
先の警職法問題で岸が高圧的な一面をあらわにしたことで、安保改定も国内で暗礁に乗りあげる。
安保反対運動にもいっそう拍車がかかることとなった。
日米相互防衛によって、日本が再び戦争に巻き込まれるのではないかと、恐れる国民が多かった。
警職法反対運動の中心となった国民会議が母体となって日米安保条約改定阻止国民会議が結成、闘争活発化していく。
1959(昭和34)年5月1日、防衛2法案を参議院で強行採決された。
5月26日、1964年夏季オリンピックの開催地が東京に決定された。
1959年6月、参議院選挙で自民党が勝利をおさめると、岸は内閣改造を断行、反主流派の一角である池田が主流派に転じ、ふたたび入閣した。
7月11日、岸がヨーロッパ・中南米11カ国歴訪に出発。
日本の戦後外交の復活に尽力し続けた。
安保改定への交渉はようやく進展をみせ、10月、改定の政府原案が自民党で党議決定された。
すると反対の声も一段と大きくなり、11月には安保改定阻止国民会議のデモ隊が国会を取り囲み、全学連を中心とする2万人が議事堂内に突入、警官隊と衝突する事態を引きおこす。
翌1960年(昭和35)1月16日、岸ら全権団が渡米し、19日に新安保条約が調印された。
日米安保の改定を受けて、ソ連・中国の対日政策は硬化した。(このため鳩山一郎内閣が日ソ国交正常化に尽力した)
国内でも野党を中心とする反安保陣営が勢いを増して、与党内の反主流派の攻勢も一段と強くなった。
条約をめぐる国会審議は遅々として進まなかった。
しびれを切らした岸は、5月19日、国会に警官隊を導入し、野党議員を排除して、深夜に衆議院本会議で、与党議員だけで新安保条約を強行単独可決した。
この強行採決が民主主義の危機と受け止められ、安保改定阻止統一行動が始まり、デモはますます激しさを増した。
6月には、来日したハガティー米大統領秘書が羽田空港でデモ隊に遭遇し、米軍のヘリコプターで脱出するという事態も起きた。
さらに、国会に突入したデモ隊のなかで東大生・樺美智子さんが死亡するといった緊迫した状況が続いた。
これを受けて、予定されていたアイゼンハワー米大統領訪日も、延期を要請せざるをえなくなった。
強行採決から30日後の6月19日午前0時、新日米安保条約は自然成立した。
23日に新条約の批准書が交換されると、同日、岸は退陣を表明した。
総理を辞する決意を、岸は米大統領訪日中止の段階で固めていたという。
退陣前日の7月14日、岸は総理官邸で開かれた池田勇人自民党新総裁の就任祝賀会に出席したが、会場を出ようとしたところを暴漢に襲われ、登山ナイフで左腿6か所を刺されて、全治2週間の重傷を負った。
犯人は元右翼団体職員を自称し「安保問題で不手際があったのでこのまま辞めさせてはいけない」と犯行の動機を語っている。
翌7月15日、岸内閣は総辞職。
約3年4か月あまりだった。
吉田茂総理時代の1951年に成立した「日米安全保障条約」(旧安保条約)は、双務的な条約ではなかった。
米軍の駐留を明記する一方で、米軍が日本を防衛する義務があるとは明記されておらず、見方によっては、日本はアメリカに基地を提供するだけとも受け取れるものであった。
また、日本国内で内乱が起きた場合、米軍が出動できる内乱条項も記され、国内問題に米軍が介入する可能性も残されていた。
岸信介は、日本が完全な独立国家になるためには安保条約を改定して対等なものにすべきだと考えていたのだろう。
一方、アメリカは、ソ連と国交回復した日本が中立化することなく親米であり続けることを望んでいた。
その上で、同盟強化の必要性も感じていた。
1960年1月19日、訪米した岸は、新安保条約「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」に調印する。
「相互協力」という言葉が新たに加わったように、日本が侵略された場合の米軍の支援義務が記された。
それと同時に、日本と日本国内にある米軍基地に対する武力攻撃に対しては、日米両国が共同で対処すること、そして、在日米軍は極東での平和と安全を確保するために日本の基地を使用できることが記された。
懸案だった内乱条項は削除された。
新たに「事前協議」制度ができた。
これは安保条約の本文ではなく、条約の実施のために日米が取り交わした交換公文のなかに明記されている。
在日米軍の配置・装備の重要な変更や、戦闘作戦に国内の基地を使用する場合には、日本政府と事前に協議する、というものだ。
しかし協議事項の具体的内容や日本側が拒否権を持つかどうかは明文化されておらず、今まで米軍が「事前協議」を申し入れてきたことはないようだ。