戦後の工業発展

戦後日本の工業発展

戦後、荒廃した状態から急速に発展した日本は「世界の工場」といわれる程になった。
資源を持たない日本は、原材料を輸入し、それを加工して工業製品として輸出する事で、経済発展を成し遂げる。
戦後の日本の高度経済成長は海外との貿易の賜物だった。
21世紀となった現代では「世界の工場」としての地位は中国へ移っているが、日本の高度な「工業力」は顕在である。

戦後日本工業のポイント

  • 日本の輸出産業の主力は、繊維→造船→鉄鋼→自動車と変遷した
  • 昭和40年代以降、輸出額が輸入額を上回り、大幅な貿易黒字を出した
  • 魚介類などの水産物も輸出

「世界の工場」といわれた日本

戦後復興を演出した繊維、高度経済成長を牽引した鉄鋼と自動車産業。
“モノを造る力”が、日本の経済発展の源となった。

戦後、真っ先に繊維産業が復興

昭和20年代から30年代にかけて、日本の戦後復興を大きく促進したのが、繊維産業であった。
戦争によって多大な損害を受けた繊維産業を再生するべく、昭和21年(1946)、政府はGHQの意向を受けて「繊維産業再建三ヵ年計画」を策定した。
この計画は、昭和24年頃までにおおむね完了し、繊維産業は、日本の輸出全体の1/3以上を占めるまでに成長した。
なかでも急成長を遂げた分野がポリエステルなどの合成繊維工業だった。
昭和45年には、合成繊維の輸出は36万トンに拡大。
世界の貿易高の25%を占める、世界一の合繊輸出国としての地位を確立したのである。

「鉄は国家なり」の時代

一方、繊維産業以上に日本の経済発展に大きく寄与したのが鉄鋼業である。
戦後、鉄鋼業は石炭業などと並んで「最重点作業」として位置付けられ、近代化投資が積極的に行われた。
昭和30年代に入ると、最新技術の導入により、鉄鋼業は急速に発達を遂げた。
その結果、日本の産業構造は、繊維主体から重工業主体に変化し、39年にはその輸出額が、繊維関連を上回った。
昭和40年代、「鉄は国家なり」といわれる様に日本の基幹産業となった。

自動車輸出大国となった日本

朝鮮戦争特需

日本の自動車産業が本格的に成長するのは、昭和20年代後半以降の事である。
昭和25年に3万代にすぎなかった生産台数は、35年には48万代と急造する。
この時期の増産を支えたのは、朝鮮戦争特需を契機とした、トラック生産の拡大だった。
昭和30年代後半に入ると、所得水準の上昇や販売価格の低下を背景に、乗用車が急速に普及し始める。
昭和35〜45年の10年間で、乗用車生産台数は17万代から318万代へと激増した。

“安価”から“高品質”へと進化

初期の日本車の輸出は、低賃金を背景とした低価格によるところが大きかった。
しかし、エンジン改良などの性能アップ、産業用ロボット導入などの生産性向上といった各メーカーの努力の結果、低燃費、故障の少なさ等、性能・品質面の優秀さが、次第に評価される様になっていった。
そして自動車は日本最大の輸出品となり、昭和55年、生産台数が1000万代を突破した。
日本は世界の中でも「自動車輸出大国」の地位に昇り詰めたのである。

日本を支える中小企業の技術

技術で脚光を浴び、大きく発展した企業もあれば、なおも小さいままの企業もある。
日本を支えてきたのは、決して大企業だけでなく、現状に慢心せず努力を続ける「中小企業」たちがいる。
「スーパーカミオカンデ」と呼ばれる“高感度光検出器”を開発した『浜松ホトニクス』、手袋などの複雑な編み物の自動化に成功した『島精機製作所』、小型マグネットモーターの開発・量産に成功した『マブチモーター』、自転車の変速機などの心臓部を支える製品を展開する『シマノ』、世界中に小型ホッチキスを輸出する『マックス』などだ。
戦後の高度経済成長の中、日本各地で、多くのきめ細かい技術力が培われていった。

ベンチャーの先駆け SONYとHONDA

敗戦の翌年、東京と浜松で誕生

ソニーと本田技研工業が、戦後日本の経済成長を代表する企業と成り得たのは、常に新しい技術を模索したと同時に、大衆化を求めたからであった。
後にソニーと名を変える東京通信工業は、敗戦翌年の昭和21年(1946)に東京都中央区で設立された。
その後カ月後、静岡県浜松市で本田宗一郎本田技術研究所を開設、2年後に本田技研工業を設立した。

戦後、早くも「開発」に成功した両社

昭和30年、ソニーは日本で初めてトランジスタラジオ『TR-55』を発表。
わずか数カ月の差で世界初の栄誉は逃したが、2年後に「世界最小」のトランジスタラジオを発売する。
昭和42年、本田技研工業が軽乗用車『N360』を発売。
独創性あふれる技術から生まれたこの傑作は、わずか3カ月で軽乗用車届出台数トップに躍り出た。

米国から学んだ両者

トランジスタ開発を決意する事になるソニーの井深大の渡米は、昭和27年。
同じ年、工作機械購入の為に本田宗一郎も渡米する。
昭和34年、本田技研工業が米現地法人を設立し、翌年ソニーも続いた。
昭和30年、渡米した盛田昭夫は、米大企業に「50年後には貴方の会社に負けないくらい、ソニーのブランドを有名にしてみせる」と宣言した。
※「ウォークマンTPS-L2」が発売されたのは昭和54年、「プレイステーション」が発売されたのは平成6年の事
昭和31年、本田技研は社是を制定し「わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する」とうたっている。

東京通信工業設立の年、井深大は38歳、盛田昭夫は25歳。
本田宗一郎が本田技術研究所を改設したのは40歳のとき、3年後に入社し宗一郎を支えた藤澤武夫は39歳だった。
この人たちが、現在の「メイドインジャパン」を造り上げたのである。


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