池田勇人内閣

池田勇人内閣(1960年7月〜64年11月)

戦後の高度経済成長に大きく貢献

4年間、4度の内閣改造、2度の解散総選挙

池田勇人は1960年7月19日から1964年11月9日までの4年間、内閣総理大臣(58-60代)を務めた。
所得倍増計画を打ち出し、戦後日本の高度経済成長に大きく貢献。
佐藤栄作を後継総裁として指名した後、病気療養に入る為に辞意、総辞職となった。
池田勇人内閣を簡単にまとめる。

失言の多さも目立った

主税局長も務めたエリート大蔵官僚だった池田は、第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任、以来、重要閣僚を歴任。
数字に強い反面、何でも数字に置き換える癖があり、美術品の価値や演説の効果まで数値化していた。
「経済は池田におまかせください」「月給を2倍にします」などの発言で有名。
失言も多かった為、第四次吉田内閣・通産大臣で失言から辞任に追い込まれた。

池田といえば「国民所得倍増計画」

池田は「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」というキャッチフレーズ のもとに、国民総生産を10年で2倍にし、所得も倍増させ、生活水準を西欧諸国並みに引き上げ、農業と非農業、大企業と中小企業の格差是正をはかる「国民所得倍増計画」を打ち出した。

自派閥・宏池会の下村治をブレーンに据え大成功

1961年4月期からの10年間に実質国民総生産を26兆円にまで倍増させることを目標に掲げたが、最初の3年間の経済成長率は9%、その後は日本経済は計画以上の成長に至った。
立案は経済学者の下村治。
大蔵官僚の下村治を中心に、経済学者や、自らの派閥「宏池会」メンバーが政策ブレーンとなった。

第1次池田内閣が発足

1960年7月、第四代自民党総裁に

岸総理の辞意を受け、7月14日に開かれた自民党大会における総裁選で、池田勇人が第四代自民党総裁に選任された。
続く7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。

保守本流体制

18日、臨時国会で首班指名を受けた池田は、幹事長に池田派の益谷秀次、総務会長に佐藤派の保利茂、政調会長には岸派の椎名悦三郎と、三派で党三役を固め、保守本流体制を築いた。
閣僚人事では紛糾していた三井三池炭鉱での労働争議を解決するため、労働行政に精通した石田博英を労働大臣に起用した。

国民所得倍増計画を打ち出す

国民総生産を10年で2倍、所得も倍増させる

政権発足47日目にあたる9月5日、池田は「寛容と忍耐の精神を政治・国会運営の基調とする」「向こう10年間の所得倍増計画」「国連中心主義と安保体制の堅持並びに経済外交の推進」を柱に、9項目からなる自民党新政策を発表する。

第二次池田内閣

所得倍増論に国民の期待が高まり選挙に大勝

自民党をはじめ各党が解散を睨み、選挙戦への動きが始まると、池田は全国遊説で所得倍増論を説き、国民の関心と期待感を経済に向けさせた。
この「池田ブーム」のなか衆議院が解散され、1960年11月20日の総選挙では、自民党が大勝する。 12月8日に第二次池田内閣がスタートする。
自民党がまとめた「国民所得倍増計画」を閣議決定する。

社会党が所得倍増計画に反対し会議を欠席

年が明けた1961年(昭和36)1月18日には、所得倍増計画の重要な柱のひとつでもあった。 農業の近代化を目指す農業基本法案を提出する。
社会党が反対し、本会議を欠席するなか、4月29日に法案は衆議院を通過し、6月12日に公布された。

池田の対米外交

日米の協力関係を強固なものに

6月19日、池田は、アメリカ大統領となったケネディとの首脳会談のため、訪米する。
池田の目的は、従来のような経済援助の要請ではなく、日米の協力関係をより強固なものにすることであった。

日本の先進国・OECD入りを目指した池田

池田はアメリカ側から、「日本のOECD(経済協力開発機構)加盟に全力を尽くす」といった言葉を引き出すなどの外交成果を残した。
OECDは、IMF(国際通貨基金)、GATT(関税および貿易に関する一般協定)と並ぶ世界経済貿易に関わる3大機構のひとつで、そこへの加盟は先進国への仲間入りを意味していた。

訪米後、再び総裁選に勝利

訪米を終えた池田は、国際情勢に対応するため、党人事と内閣改造を行なう。
そして1962年(昭和37)7月1日に行なわれた参議院選挙で自民党は勝利し、池田は自民党総裁に再選される。(7月14日に行われた自由民主党総裁公選は、現職の池田一人が立候補、事実上、池田総裁の信任投票となった)

高度経済成長に陰りが見え始める

国内から政権批判の声が上がる

1963年(昭和38)に入ると、高度経済成長にもひずみが生じてくる。
消費者物価の上昇が続き、所得格差が広がり、国内はもちろん国民側からも政権批判の声が聞こえるようになってきた。

池田が「物価問題懇談会」の設立を指示

こうした声に対抗するように6月3日、池田は「物価問題懇談会」の設立を指示し、池田内閣満3年を迎える7月1日に党人事、16日に内閣改造を行なう。

成長に陰りが見えても選挙には勝つ

第30回衆議院総選挙で大勝

10月、衆議院を解散した池田は遊説先でも「物価が上がったからといって農業や中小企業の人にしわ寄せがきてもいいんでしょうか」などと強気を貫き、11月の総選挙(第30回衆議院議員総選挙)でも自民党は過半数を大きく超える席を獲得した。

吉田茂に引退を促す

その陰で、政治の師匠である吉田茂に政界からの引退を促した。
85歳の吉田は立候補を取りやめた。

ケネディの葬儀に外相と共に出席

二度目の総選挙の直後の11月23日、ケネディ暗殺の報が入る。
池田は葬儀出席を決め、大平正芳外務大臣を伴ってワシトンへ飛んだ。

戦没者叙勲を復活させる

野党などは大反対

12月に第三次内閣をスタートさせた池田は、既に復活が決定していた生存者叙勲と、戦後中止されていた戦没者の叙勲も復活させる。
野党や各界の反対がある中で、1964年(昭和39)4月25日に戦没者叙勲が、同28日に生存者叙勲が表された。

自分の師匠に勲章を授与

そのとき最高位勲章を授与されたのが吉田茂である。

日本が先進国の立ち位置に

同月、日本は「IMF」(国際通貨基金)において先進国と同等の扱いとなる8条国への移行が認められ、「OECD」(経済協力開発機構)に正式加盟を果たすこととなった。
日本が経済において国際的な地位を得て、先進国の一員になったのである。

経済成長しつつ、物価上昇、株価低迷

国内では物価上昇、株価の低迷、中小企業倒産が社会問題化しはじめる。
池田は、物価上昇は経済成長の過と考え、成長路線を買いた。

五輪開会式には意地でも出席

東京五輪に執着

9月7日、池田は東京で開催されたアジア初のIMF総会に出席。
東京オリンピックを控えて沸き立つ東京を引き合いに出し「日本の爆発的エネルギーを見てください」と、開会式でスピーチを行なった。

池田が入院、病状が発覚

その2日後、兼ねてから喉の不調を訴えていた池田は入院する。
検査の結果がんと判明したが、がんの一歩手前の「前がん状態」と発表された。
池田放射線治療などを受けながら、10月10日のオリンピック開会式には病院から出席した。

池田が辞任、池田内閣が総辞職

閉会式翌日の25日、「長期による政治空白を避けるため」と辞意を表明し、池田内閣は11月9日に総辞職した。
池田の次は、佐藤栄作内閣となった。


↑ページTOPへ