現在では当たり前となっている大都市間をつなぐ高速道路は、昭和40年以降、急速に日本全国に拡大していった。
一家に一台が当たり前の自動車依存型社会が到来し、全国で人々の行き来が活発に行われる様になる。
昭和40年代以降、人々の生活が豊かになるなか、乗用車はより身近なモノになっていった。
昭和30年(1955)に全国で15万台だった乗用車は、昭和40年には190万台、昭和50年には1480万台にまで増えた。
人々は一家に一台の乗用車を手に入れ、通勤だけでなく、ドライブや観光旅行など、レジャーに利用する事も当たり前になっていった。
舗装道路が増加し、高速道路が開通した事などが、乗用車の所有を促したといえる。
昭和30年代、都内の自動車交通を円滑にする目的で建設されたのが首都高速道路である。
昭和37年、1号線の一部であった京橋〜海岸間(4.5q)が開通し、以降、2000年代までに283qが建設された。
そして、その路線が神奈川や埼玉にまで広がっていったのである。
建設当初、ビルや家屋が立ち並ぶ東京で、新たな道路を建設する事は困難であった。
そうした問題を解決する手段として、家屋の密集地域を避け、東京を巡る水路や河川、幹線道路の上に道路を建設した。
また、3号線、4号線が合流する三宅坂インターチェンジは、地下に設けるなど、様々な工夫を用いて首都高速は完成したのである。
東京オリンピック1964が開催された昭和39年には、開通距離32.8q、通行車両数は年間2000万台であったのが、今日では、1日に100万台以上が利用し、年間おおよそ4億台もの車両が行き来しているのだ。
なお、首都高速通行料金だが、昭和37年には50円だったが、38年には100円、39年には150円、45年には200円と、年々高くなっていった。
昭和40年には、日本初の高速道路として、愛知県から兵庫県を繋ぐ「名神高速道路」が全線開通する。
その後、東京から愛知県を繋ぐ「東名高速道路」も開通し、大都市間の輸送に大きな役割を果たした。
そして昭和50年代以降は大都市間のみならず、全国各地に高速道路のネットワークが形成された。
昭和45年に1日32万台だった高速道路利用台数は、平成17年(2005)頃には約400万台に増加し、自動車交通の大動脈として機能している。
昭和30年代まで、貨物の長距離輸送はほぼ鉄道と船舶が担っていた。
とくに地域間を結ぶ物流では鉄道輸送が中心だった。
しかし鉄道輸送には、最寄り駅から届け先までの間で車やトラックに積み替えなければならないという、時間やコスト面で多くの課題があったのだ。
その為、昭和30年代以降、鉄道輸送からトラック輸送への転換が進展する事になる。
昭和30年に約25万台だったトラックは、昭和40年には386万台へと急激に増加している。
加えて昭和41年には、自動車輸送は貨物輸送トンキロ※で鉄道を越え、昭和60年代には船舶を越え、輸送手段の中心になった。
※トンキロとは貨物輸送量を表す単位の事で、例えば、1tの貨物を1km運んだ場合は「1トンキロ」と表し、1tを10km運んだ場合は「10トンキロ」と表す。
宅配便と呼ばれる小口の貨物輸送は、昭和50年代以降に急速に拡大し、郵便小包をはるかに凌駕する様になる。
ゴルフ便や時間指定など、様々なサービスを取り入れて飛躍的に発展したのである。
このように「戸口から戸口へ」と輸送が可能な自動車は、その便利さから個人対個人の荷物の宅配を広く普及させる事になった。
また、現在では、インターネット・ネット通販の普及の増加で、宅配便の需要は、限界ともいえる程に増えて来ている。