鳩山一郎は敗戦直後の1946年に総理就任の目前にGHQより公職追放されてしまったが、復帰後の1954年に日本民主党総裁として総理に就任した。
吉田茂の対米追従外交に対抗し日ソ国交正常化を果たした。
内政は国民生活の向上、住宅不足を解消など戦後復興に貢献、憲法改正を目指すが失敗した。
自由党と日本民主党が合同して自由民主党を結党、鳩山が自民党の初代総裁に就任した。
鳩山内閣を簡単にまとめる。
衆議院議員だった父・和夫の後を継いで政界に入り、犬養毅内閣で文部大臣を務める。
しかし戦時中、国家総動員法を批判し、翼賛政治会を脱退。
終戦を機に政界復帰するが、自著『外遊日記 世界の顔』がGHQからヒトラー賛美だとみなされ、総理就任直前に公職追放され、後継に吉田茂を指名した。
後に追放を解除され、吉田茂の退陣後、総理の座に就いた。
鳩山一郎の孫の鳩山由紀夫が後に総理大臣となっている。
1946年、総理就任を目前にして公職追放となった鳩山一郎は1951年に追放解除を前に脳溢血で倒れ、杖をつく身となっていた。
長期にわたる吉田茂ワンマン体制には与党・自由党内にも批判の輪が広がっていたが、左右両派社会党は「吉田の後継者に政権は渡せぬ」と表明する。
こうした中、鳩山は自由党を離党し、日本民主党を結成。
早期解散で民意を問うとの約束で、左右両派社会党の協力を取り付けた。
こうして、吉田内閣総辞職後の首班指名を鳩山は大差で勝ち取る事ことができた。
鳩山一郎は、左右両社会党との早期解散で民意を問うという約束を実行に移す。
12月9日、国会での首班指名投票で総理大臣の座を獲得した鳩山は、翌1955年(昭和30)1月24日に、組閣後わずか45日で衆議院を解散した。
この短期間に鳩山内閣は大臣公邸の廃止や、公務員の民間業者との麻雀やゴルフマージャンの禁止など、民衆の心をつかむ政策を実行した。
これが、友愛を説く自由主義者(リベラリスト)鳩山を歓迎する鳩山ブーム≠ノ一層の拍車をかけた。
元ソ連駐日代表部臨時主席のドムニッキーが鳩山邸を訪れて日ソ交渉を打診したのは、こういう状況下にある、1月のことだった。
2月27日の総選挙で、鳩山の民主党は過半数獲得はならなかったものの、晴れて第一党となった。
自由党の協力を取り付け、第二次鳩山内閣が発足。
副総理・外務大臣が重光葵、大蔵大臣が一万田尚登、通産大臣が石橋湛山、農林大臣が河野一郎など、主要閣僚はすべて再任した。
この総選挙では日本社会党も躍進しており、保守対革新の闘いはより熾烈になった。
対共産圏外交の必要を訴え、日ソ外交に積極的な鳩山内閣に対し、アメリカは、日本の再軍備を強く要望していた。
昭和30年度の予算編成にあたっての防衛分担金(日米安保条約および行政協定に基づ日本の支出)の削減交渉は難航したが、4月19日の日米共同声明で決着がつく。
ところが、5月には山梨・米軍北富士演習場での射撃演習に地元民が抗議し、7月には東京・米軍立川基地拡張に地元の砂川町民らが反対闘争を展開。
8月19日、ロンドンで行なわれた重光外相とダレス米国務長官との会談では、安保条約の改定や沖縄・小笠原諸島の返還などの日本側の要求はことごとく拒否された。
内政では国民生活に目配りした政策を行ない、3月には、日本経済の発展と国民生活の向上を主眼とした日本生産性本部を設立。
7月には日本住宅公団を発足させ、都市部で不足している住宅事情の解消に乗り出している。
10月13日に左右両派社会党が統一、11月15日に自由党と日本民主党が合同して自由民主党(自民党)が結党された。(保守合同)
ここに二大政党による「55年体制」が始まった。
この体制下で、絶対多数を占める戦後初の単一保守党・自民党を基盤とする第三次鳩山内閣が22日に成立した。
ただし鳩山が自民党初代総裁に就任したのは、1956年(昭和31)年4月5日である。
自民党は、日本が真の独立国になるには自主憲法の制定が必要だとの視点から、結党の理念のひとつに「新憲法制定」を置く。
憲法改正のための議席数確保を狙い、鳩山内閣は3月19日、小選挙区制を導入する公職選挙法改正案を提出した。
この法案は、アメリカのマサチューセッツ州知事ゲリーがかつて自分に有利な選挙区割りを決め、その形が怪獣サラマンダーに似ていたため、ゲリマンダーと批判された、それにならい、ハトマンダーと呼ばれた。
4月30日、この小選挙区法案をめぐり衆議院本会議が大混乱に陥る。
また、6月1日には、教育委員を公選制から任命制に改める新教育委員会法案を衆議院で自民党が強行採決すると、参議院では社会党の実力阻止により乱闘国会となり、警官隊が出動する騒ぎとなった。
結局、小選挙区法案は廃案となり、新教育委員会法案は可決成立した。
憲法改正に向けての意見調査のための憲法調査会法案が可決公布されるのが6月11日。
しかし、7月に行なわれた参議院選挙で、社会党などの護憲勢力が改正阻止に必要な3分の1の議席数を確保し、憲法改正の発議は不可能になった。
鳩山が目指した改憲とは別のもう一つの課題、ソ連との国交回復が残っていた。
日本とソ連はいまだ法的には戦争終結に至っていなかった。
しかも世界は深刻な東西冷戦下にあった。
また、日本は主権回復後、国連加盟を目指して来たが、常に常任理事国のソ連の拒否権発動で実現していなかった。
まず、4月29日にモスクワで日ソ漁業条約交渉が始まり、5月14日、日ソ漁業条約が調印された。
日ソ両国のサケ・マスなどの漁獲量や漁期などが話し合いで取決められることとなった。
そして7月31日、日ソ交渉が再開された。
10月7日、鳩山は自らソ連に向けて出発、19日、日ソ共同宣言に調印する。
大願成就した鳩山は、12月14日の自民党臨時党大会で総裁を辞任した。
後任総裁は、石橋湛山と岸信介による決選投票の末、石橋が新総裁となる。
1月18日、国連総会で、満場一致で日本の国連加盟が承認された。
その2日後、鳩山内閣は総辞職した。
戦後復興への貢献、自民党の結党、国連加盟、鳩山一郎の貢献は戦後日本にとって非常に大きいモノであった。