福田赳夫は大蔵省の官僚から政界に転身、岸内閣で農林大臣、佐藤内閣で大蔵大臣や外務大臣などの要職に就く。
佐藤栄作の後継総理に確実視されていたが、党内工作を嫌う福田は、自分より13歳も若い田中角栄の多数派工作の前に総裁選で敗れ、田中の後継を決める椎名裁定でも総理の座を逸し、総理となったのは71歳の時だった。
経済では安定成長を目指した。
自民党の立て直しとして、ロッキード事件解明、派閥解消、全党員による総裁公選制度(予備選制度)を推進した。
外交では協調と連帯を意識し、東南アジアとの協調関係を重視し、日中平和友好条約に調印し、日韓大陸棚協定を自然成立させた。
1976年12月24日、前三木内閣が退陣し、福田内閣が発足した。
激しい「三木おろし」で自民党内は分裂し、国会は与野党が伯仲していた。
12月24日に発足した福田赳夫内閣には、多くの政治課題が山積していた。
福田は翌25日には日中平和友好条約締結に意欲を見せ、30日には福田派総会で派閥解消を掲げた。
1977年(昭和52)の年頭記者会見では、景気対策に力を入れると宣言する。
また、1974年に日本・韓国両国が署名したものの未だに発効していない日韓大陸棚協定の承認を急ぐとした。
これは海洋資源開発促進のためには欠かせない協定だった。
1月17日には、これも1966年以来、長年にわたり実現していなかった千葉・成田空港の年内開港を指示した。
年内開港を指示したが、開港は翌1978年5月20日となる。
党の出直し改革では、自民党改革本部を立ち上げ、自ら本部長になり、ロッキード事件の全容解明、派閥の解消、全党員による総裁公選制度(予備選制度)を訴えた。
経済分野では「減税はインフレを起こす」「福祉政策をすべきときに減税はできない」というのが持論だったが、1977年度予算案は数の力に負け、野党の要求する所得税減税に応じることでなんとか可決成立させる。
借金財政のなか国債に頼るしかなく、福田内閣のもとで国債依存率は一気に上昇した。
懸案だった独占禁止法改正案、海洋二法(領海法、漁業水域に関する暫定措置法)などの重要法案を与野党伯仲のなかで次々に成立させた。
日韓大陸棚協定については、5月10日に衆議院で強行採決、国会会期を延長して参議院で6月9日に自然成立させた。
外交面では、ソ連との200カイリ問題で合意を取り付ける。
3月に訪米してカーター米大統領と日米協調を確認する。
5月のロンドン・サミットでは、世界経済を引っ張る「日本機関車論」が言われ、日本は実質6.7%の経済成長を達成し、「世界の景気を引っぱる」と宣言する。
8月6日からは東南アジア6か国を歴訪して日本の東南アジア外交政策の基本方針三原則(福田ドクトリン)を発表し、各国から高い評価を得た。
帰国後、福田は景気対策に精力的に取り組む。
9月3日に、公共投資などに2兆円規模を投じる総合景気対策を決定。
5日には日銀が公定歩合を引き下げた。
均衡財政が持論の福田にとって大きな方向転換であり、財政・金融が一体となった対策だった。
11月28日には内閣改造を行ない、1978年度予算とともに1977年度第二次補正予算の編成を指示。
2年にまたがる予算を切れ目なく執行することで景気回復をねらったもので、「15か月予算」と呼ばれた。
「景気回復には減税より公共投資」という福田の方針が反映されたものだった。
1978年(昭和53)、成田空港は予定より遅れながらも5月20日に開港。
日本経済も、総合景気対策、15か月予算などにより、4〜6月期、7〜9月期は年率換算7%の伸びを達成し、ようやく活気を取り戻し始めた。
「成田13年、日中6年、大陸棚5年」。
総理就任2年目となる10月の臨時国会閉幕後の記者会見で、福田はこう言った。
歴代内閣が手こずり先送していた懸案を、就任後1年半で処理したのである。
福田は長期政権に意欲を見せるが、「次は大平」という約束で幹事長となり党運営に協力した大平正芳は、総裁選出馬に動きはじめる。
再選に自信をもつ福田は予備選での党内工作をせず、田中角栄の支持を取り付けた大平が圧勝。
福田は本選を辞退し、11月27日、福田内閣は退陣した。