駿府は京に似せて造られていた。碁盤目のような街区、街を通る安倍川、清水寺や愛宕山などの京由来の地名。
駿府に京と同じ地名が多いのは、今川義元が京に憧れたためであった。
静岡県静岡市は、明治時代以前には駿府・府中と呼ばれ、江戸幕府の初代将軍・徳川家康が愛した地として繁栄した。家康はこの駿府に特別な思いを抱いていたようで、街の構造そのものに、様々な仕掛けと秘密が隠されている。家康と駿府の出会いは、幼少期、三河の土豪松平家から今川家に、人質として差し出されたことにはじまっている。
徳川家が統治する前、駿府の地は今川氏の領地であった。
今川義元の本拠である駿府は「東の都」とすらいえる繁栄を謳歌し、経済的にも文化的にも一流の都市に成長していた。
なお、駿府とは駿河の国府という意味である。
有事の際には今川館に近い山城「賤機山城(しずはたやまじょう)」が詰めの城として機能し、防御力を担保していた。ちなみに、静岡県の県名は、この「賤機山」に由来する。
明治元年、この地は駿河府中藩となったが、「府中」が「不忠」に通じることから、藩知事の徳川家達がこの名を嫌い、賤機山に因んで賤ヶ丘藩へと藩名を変更しようと提案。
しかし、賤という文字が好ましくないということで、これ静に変え、その後、廃藩置県で静岡県となる。
応永11年(1404)今川氏六代の範政により今川館は築かれたという。
代を重ね、今川氏の勢力拡大とともに駿府も整備され、義元の時に今川時代駿府の、最盛期を迎えることになる。
義元の父・氏親の姉は、公家の正親町三条実望に嫁ぎ、今川家は京との関係を深めることになる。
実望は、駿河に荘園を持っていたこともあり、応仁の乱と打ち続く戦乱に荒れ果てた京を離れ、晩年の2年間を駿府に過ごしている。
なお、実望の子の公兄もまた、駿府暮らしを楽しんだ。
氏親の正室である義元の実母もまた中御門宣胤の娘であり、公家の血を引く義元は京の文化を愛し、多くの公家を駿府に招いている。
冷泉、三条、四条、飛鳥井、勧修寺、山科など、多くの名門公家が駿府を訪れ、彼らは長期滞在して公家文化を駿府に伝えていた。
これは、今川家が彼らを厚遇したためでもあるが、同時に京よりも駿府の方が居心地が良かったという意味でもある。
ある意味、荒廃していた京を、この時代の駿府は越えて繁栄していたのだろう。
また、若き時代の義元は駿河国富士郡瀬古の善徳寺において出家し、栴岳承芳と称していた。
師である臨済僧・太原雪斎とともに京の建仁寺をはじめとする五山で修行をした経緯もあり、義元の京への愛着は大きなものであったと考えられる。
駿府を攻められる心配のない状況であったためか、義元には危機意識がさほどにないように見受けられる。
今川館も駿府の街も、防御に関する改変はあまりなく、もっぱら文化的な整備が優先された。
後に駿府を整備した徳川家康は、安倍川の流路を変更して城の西方にまとめて堀とし、防御能力を大いに高めたが、義元はむしろ、駿府の街の中を走る安倍川を、京の賀茂川に見立てて楽しんでいたという。
さらに、丸山、愛宕山、清水寺など、京を意識した地名を周辺各地に付けるなど、京都趣味で駿府はいろどられていた。
街区を碁盤目状にしたのも、合理性と同時に京都趣味による面も強いと思われる。
強大な勢力と財力を持ちながら、居館を城として整備せず、河川の流路についても風流を優先する。
駿府の地形、地名には、今川義元という大名の趣味嗜好がとても強く影響していることが理解できる。
今川義元の駿府は、まさに小京都を目指して築かれた、文化的都市だった。