戦国時代の女性たちの人生とはどんなものであったのか。
現代の感覚からすると、決して恵まれた人生とは言えぬものであった。
戦国時代、武家に生まれた女性の殆どが、政略結婚の道具として使われていたと言っても過言ではない。
政略結婚とは大名同士が同盟を結ぶ際に行われる事が普通だった。
この場合は適齢期に達している、達していないに関係なく形式的に行われていた。
戦に負けた側の大名が勝った側の大名に対して服属の証として娘を差し出すという場合がとても多かった。
この場合、差し出された女性は側室として迎えられる事が普通であった。
※側室とは本妻以外の側妻や妾の事。本妻は正室。
また大名が自分の娘を家臣と結婚させる事も多かった。
これは武家内の結束を高める目的で行われ、戦国時代には多くみられた。
逆に子供のない大名が家臣の娘を養女に迎える事もあった。
このように男性優位の時代背景で、強く生き抜いた女性も多くいた。
代表的な例として、織田信長の妹であるお市だ。
お市は、戦国一の美女などとよく言われるが、その美貌のみならず性格も兄の信長に似ており、とても気が強かったようだ。
お市は信長が浅井長政と同盟を組むために、長政と婚姻を結んだ。
しかし実は、信長の臣下である柴田勝家や羽柴秀吉も、密かに想いを寄せていたと云われている。
後にお市は柴田勝家に嫁いだが、お市の事を忘れられない秀吉は、やがて勝家との確執を生んだ。
お市は夫の勝家と秀吉が戦い、勝家が負けた際に、秀吉から助けられる事を拒み、勝家と共に自害する道を選んでいる。
そのお市の長女であった茶々は、後に豊臣秀吉の側室となる淀殿(よどどの)である。
淀殿も母のお市と同様に美貌の持ち主で、性格も勝気な女性だったと云われている。
淀殿は秀吉との間になかなか子供に恵まれなかったが、ようやく男の子の鶴松を生んだ。
しかし、鶴松はわずか2年で病没してしまう。
しかし、淀殿は次に次男の秀頼を生む。
淀殿は秀吉が没した後も豊臣家の中では、秀頼より上の発言力を持っており、実質的に最高権力を握っていた。
後に徳川家康率いる江戸幕府軍が大坂城をを攻めた際にも淀殿は降伏する事を拒んでいる。
そして、最終的には秀頼と共に自害の道を選んでいる。
お市、淀殿の末路はとても良く似ている。
2人とも、生き恥を晒して生き続ける事を潔しとせず、死を選んでいる。
こうした最後は非常に「武士らしく」在り、武家の女性らしい生き方を全うしたといえる。