甲相駿三国同盟

甲相駿三国同盟

武田・北条・今川の三国同盟

甲相駿三国同盟とは、天文23年(1554年)に結ばれた、武田信玄・北条氏康・今川義元の3者による和平協定。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指す。
締結時に3者が会合したという説話から善徳寺の会盟とも呼ばれている。

今川義元の飛躍と三国同盟

家督争い「花倉の乱」を制し、名門・今川家の当主となった今川義元。
義元は隣国を支配していた武田・北条と三国同盟を結び、今川家の黄金期を築いた。

義元が今川家の家督を継ぐ

北条早雲の後押しで家督を継いだ今川氏親が亡くなったあと、嫡男の氏輝が後を継いだ。
ところが天文5年(1536)3月、氏輝は24歳の若さで亡くなってしまう。
氏輝には子がなく、僧籍に入っていた弟が後を継ぐことになった。

花倉の乱

このとき氏親正室の寿桂尼や太原雪斎は、京での修業経験がある梅岳承芳(ばいがくしょうほう:寿桂尼の子、後の義元)を後継に推す。
だが、重臣の福島氏(くしま)がこれに反対し、氏親側室の子だった玄広恵探(げんこうえたん)を当主に掲げた。
両者は互いに相容れなかった為、たちまち駿河各地で戦いが始まった。
これが「花倉の乱」と呼ばれる今川家家督争いの始まりであった。

義元が今川家当主となる

戦いは5月から6月にわたって繰り広げられたが、梅岳承芳は相模の北条家の後押しも受けて攻勢に出て、恵探側が立て籠もる花倉城を攻略した。
恵探は自害し、勝利した梅岳承芳は還俗して義元と名乗り、今川家の後を継ぐ。

今川vs北条 河東一乱

義元は甲斐の武田家と同盟を結んだが、この同盟に北条氏綱は激怒し、北条家との仲が悪化する。
氏綱は富士川以東の地域(河東)に兵を進め、これを占拠した(河東一乱)。
今川家は花倉の乱の影響で、家中の統制が執れなくなっていた為、河東一帯は7年ほど北条方に占拠された状態となってしまう。

三国同盟締結

義元が河東を奪還した後、和睦

天文14年(1545)、今川義元は北条に占拠された河東を奪還する為に出陣する。
氏綱の子・氏康は関東に敵を多く抱えていた為、河東に十分な兵を送れず、義元は河東の地を奪還する。
武田晴信(信玄)の仲介で北条・今川は和議を結んだものの、両家の緊張は続いていた。

今川と武田が外戚となる

その後、義元は領国拡大の矛先を西の尾張方面へ向けていったが、背後の武田家や北条家との関係を良好にしておく必要があった。
そこで、まずは義元の娘を武田晴信の嫡男・義信に嫁がせ、甲駿同盟をより強固なものとした。

今川家の軍師・太原雪斎の尽力

既に武田と北条家は同盟を結んでいたので、残るは「駿相同盟」の締結のみであった。
今川家の軍師である太原雪斎は氏康に働き掛け、義元の嫡男・氏真と氏康の娘の縁談をまとめた。
こうして天文23年(1554)、武田・今川・北条の三国同盟が成立する。
晴信、義元、氏康の3人は駿河の善徳寺で会談を行ったと云われているが、これに関しては創作の可能性が高い。

武田・北条両家が上杉と激突

三国同盟を結んだ事で、三者とも後顧の憂いを断つ事が出来た。
晴信は信濃統治を万全にする為、長尾景虎(後の上杉謙信)と川中島で戦い始めた。
また氏康も、度々関東に侵攻して来る景虎と戦いつつ、関東平定に全力を注いだ。

今川は尾張・織田信長との戦いに備えるが・・

そして義元は尾張の織田信長との戦いを本格化させようとしたが、その矢先に雪斎が亡くなってしまう。
雪斎の死は「今川家の衰退は雪斎の死によって始まった」と言われる程の影響を与え、後の桶狭間の敗北へと繋がっていく。


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