戦国時代の日本の銀

戦国時代、日本は世界有数の銀産出国だった

戦国時代の日本は世界有数の銀産出国だった。
当時は日本の銀が世界の約1/3を占めていたが、これは日本の銀が大量に産出された為に安価で、購入が容易だったため、欧州各国が欲した。

戦国時代、欧州各国が日本の銀を欲した

1543年(天文1年)に日本に鉄砲が伝来し、さらに1549年(天文18年)、スペインのキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが来日した。
以降、ポルトガル、スペイン、オランダなどを中心にヨーロッパ各国が日本を目指した。

日本銀が世界の約1/3を占めた

その目的は日本で大量に産出した銀である。
当時の日本の銀の産出量は世界の銀の約3分の1を占めるほどだった。

東アジアの貿易通貨となっていた銀

欧州諸国が東アジア市場に参入

大航海時代を迎えて世界各国に植民地を形成し、世界規模で貿易を行うようになったヨーロッパ諸国。
さらに欧州諸国は、中国との貿易を拡大させるために東アジアの市場に参入した。
そこで貿易通貨となったのが銀だった。

明が15世紀に銀納税を導入していた

明は15世紀に銀による納税を導入したため、銀の需要が高まった。
そのため、中国との貿易において銀が貿易通貨となった。

日本では中国銭が基本通貨だった

中国は銀高、日本は銀安

銀高の中国に対して、戦国時代の日本では銀安となっている。

日本では急激に銀産出量が増えていた

これは市場での通貨が基本的に中国銭であり、それほど銀の需要が多くなかったことと、日本の銀の産出量が急激に増えたことによる。
その代表例が、現在ではユネスコの世界遺産に登録されている島根県石見市の石見銀山であった。

石見銀山の開発で銀の供給量が増大

1527年に石見銀山が発見、以降、開発がすすむ

世界の銀の約3分の1を占めた日本の銀の多くは石見銀山で産出されたものである。
石見銀山は、1527年(大永7年)に発見され、博多商人と隣国の出雲国(島根県東部)の銅山経営者との協力によって開発された。

出雲鉱山と博多商人が協力

山陰地方は日本海の航路を使って、出雲地方で産出される銅や鉄の貿易を行っていた。
鉱山の知識を持った出雲の人々と博多商人はもともと繋がりがあったため、開発と販売という協力体制が構築されたのである。
また出雲の鉄は主に砂鉄からつくられたが、採掘を行う鉱山の開発には設備や技術を持った労働者の確保など、初期投資や運転資金として多額な費用を必要とした。
そのため、出雲の鉱山経営者と博多商人が結びついたのである。

製銀法の進化で生産量が増大

灰吹法、朝鮮半島から伝来した当時の最新技術

1533年(天文2年)、博多商人によって手配された鉱山技術者が石見銀山へと送り込まれ、朝鮮半島から伝来した最新の製銀法である灰吹法が導入された。
灰吹法は製錬の最終過程で銀・鉛の化合物から鉛を取り除く技術である。
灰吹法によって銀の生産量は飛躍的に増大した。

1530年代後半、約5倍になったと記録

石見地方を支配した大内氏への毎年の献上銀の量は、1530年代後半には、約5倍になったことが記録されている。
石見銀山での採鉱と製錬技術はその後、但馬国(兵庫県)の生野銀山など、ほかの地域にも伝わり日本の銀の供給量を増加させた。

日本の銀は大量で安価、世界から求められた

銀高の中国に対して、日本では銀安の状態だったのである。
こうして中国との貿易を拡大させたいヨーロッパ諸国は手近かつ割安な銀の調達先として日本を目指したのである。

スペインとポルトガルが、銀の利権を奪い合う

日本銀の輸出はポルトガルが担うことに

ザビエルは、大内氏が支配する周防国(山口県)で布教を熱心に行うが、これは領地に石見銀山がある大内氏とのパイプづくりという目的があった。
一方、スペインの宿敵であったポルトガルは1571年(元亀2年)、長崎に来航してマカオとの定期航路を開いた。
これにより、日本銀の輸出はポルトガルが担うことになった。

東南アジアと南米を繋ぐ航路が開かれる

これに対して、スペインは同年にフィリピンにマニラを建設し、マニラとメキシコ西岸にあるアカプルコとを結ぶ太平洋航路を開いた。

南米は日本以上の銀産出地域だった

南米は日本以上の銀産出地域だった

南米は日本以上の銀産出地域だったため、スペインは南米の銀を東アジアに運ぶために新たな航路を開いたのである。
これによって南米銀がマニラ→福建経由で中国にもたらされた。

日本銀と南米銀が流通していた

戦国時代の東アジアでは、日本銀と南米銀が大量に出回っていた。

日本銀が、国内の戦にも大きく影響

戦国時代、武器が発展

日本で産出される大量の銀は、戦国時代にも大きな影響を与えた。
ヨーロッパ各国からもたらされる書物や武器によって技術革新が行われた。

硝石(火薬)は輸入で得ていた

特に重要だったのが硝石の輸入である。
戦国時代にもたらされた鉄砲はすぐに国産化され、その保有数は日本全体で50万挺にも及んだ。
これは当時、世界一の鉄砲保有数である。
ところが鉄砲の銃身の素材となる鉄などは日本である程度産出されるが、火薬となる硝石は日本で採れなかった。
この輸入を担ったのが、スペインやポルトガルの商人宣教師や、オランダの商人だったのである。

やがて日本の銀は衰退

南米の銀に押されてしまう

先に述べたように、南米は日本以上の銀の産出地域であった。
南米では、16世紀後半にスペインがポトシ銀山の開発、ボリビア・メキシコ産のメキシコ銀が増大していったが、、日本銀はそれに押されて次第に衰退していった。

石見銀山の鉱脈が絶え廃鉱に

石見銀山は豊臣秀吉、徳川家康によって直轄銀山として採掘された。
しかし、江戸時代にはいると鉱脈が絶え、最終的には廃鉱となった。


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