戦国時代は経済戦争

戦国大名らは経済政策を競った

戦国時代は大名らによる経済戦争の時代でもあった。
戦の費用を賄うにも経済力が必要であり、また、領民の支持を得るにも自国の経済を発展させる必要があった。
ゆえに全国の戦国大名らは競って経済政策に力を入れた。
戦国大名らの領国づくり・経済政策をまとめる。
>> 戦国時代の銭不足

土地は奪えど、しっかり統治した

戦国時代、天皇も将軍も無力になっていた

戦国時代というと、戦国大名同士が大規模な戦を繰り返し、略奪によって利益を得ていた印象があるかもしれないが、戦国大名はこのような武力行動ばかりをとっていたわけではない。(もちろん、そういう側面もありはした)
戦国時代には、朝廷(天皇)や室町幕府の権力・権威・支配力が著しく低下したため、全国に影響力を及ぼし、資源の再配分をする主体が存在しなかった。

戦国大名が産業振興を行う理由

朝廷・幕府の支配力が弱まり、全国協力体制も弱まった

奈良時代には朝廷が物資を集めさせて各地に再配分する仕組みがあり、鎌倉・室町時代になると幕府が定期市の秩序を正すことで物流を全国規模で支えていたわけだが、戦国時代に突入するとこのような全国一律で統治を行う主体がいなくなる。
すると、当然のことながら資源配分が不徹底となり、自然災害や飢饉などの非常事態が発生した場合には、深刻な事態になった。

貧困により領民同士の争いが頻発

戦国大名にとって問題だったのは、戦国大名同士の戦よりもむしろ農民や漁民などによる村落間の紛争である。
これらの村落間の紛争は隣国との武力衝突に発展するリスクを内包していた。
だが、こうした村落間の紛争での物資の奪い合いが、人々の物資不足を解決する手段とならざるを得なかった。

自国の経済を管理し、争いを未然に防ぐ

一方で、村落間の紛争は戦国大名同士の戦にもつながる。
自らの知らないところでの紛争が領国間の争いにつながることのないよう、戦国大名は他の領国の戦国大名と協定を結んで対外手腕を発揮すると同時に、領国内の物流の充実化を達成する経済政策の手腕も発揮しなければならなかった。
単に戦だけに特化するだけでは、戦国大名はその役割を果たせなかったのである。

戦国大名が力を入れた民政

強い国造りが強い大名を生む

そのため、戦国大名は自国内だけで、ある程度、資源を賄わなくてはいけなかった。
自国の独立を保つため、食糧の生産性を上げ、商業を活性化して富を生み、産業を発展させる必要があった。
そのため、有力な戦国武将はいずれも、自国の経済政策に力を入れ、村落民の支持を得るための方策を執っている。

後北条氏の民政

年貢の過剰徴収に待ったをかけた

例えば、最後まで豊臣秀吉に抵抗した小田原・北条氏は、目安箱を設置して、領主層が過剰に年貢米を徴収しようとした場合に直訴できるようにした。
現在の内部告発のシステムだ。

日本最古の水道、早川上水

また、小田原・北条氏は日本で最も古い水道とされる早川上水を整備したことでも知られる。
正確な年代は不明だが、小田原・北条氏の3代目・北条氏康が、小田原城下に水を引き入れるために設けたとみられる。
1545年(天文14年)に小田原へ立ち寄った連歌師の紀行文に、この上水に関する記述がある。
各戸に水を引くために木製の水道管が用いられ、水は炭や砂でろ過して使われたという。

武田信玄の民政

信玄堤、洪水を抑え農業を守る

同じように治水工事を行ったのが、武田信玄である。
信玄堤と呼ばれる堤防をはじめ、大規模な土木工事を行った。
このような大規模な工事を伴う農耕設備・公共施設の整備は、民間の力では難しく、特殊な技術を持った職業集団が必要となる。
戦国大名は自国の民政にも力を入れたのである。

信玄堤『山川 詳説日本史図録』より引用

【信玄堤】甲斐国西部の釜無川と御勅使川が合流する付近ではたびたび洪水が発生し大きな被害を出していた。領国の安定経営をはかる武田信玄は、御勅使川の流路を北に移し、釜無川左岸の竜王高岩にぶつけて水勢を弱めた。また洪水多発部分の堤防は直線状にはせず、聖牛(せいぎゅう)や蛇篭(じゃかご)という技法を用いて、斜めに突き出した亀甲出しを多数設けた。これは堤防の決壊を避けるためで、川の流れに逆らわずに、水流を弱めることを主目的としていた。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

戦国時代に各地で商業が発展

戦国大名は商業の活性化にも腐心した。

市場法が多く制定、商業発展のために法整備

鎌倉時代から室町時代にかけて、寺院の門前、あるいは大きな石など何か目印がある区域では定期市が開かれ、この市における法令が定められたが、戦国時代はこの市場法が特に多く制定された時代である。
織田信長などが活躍した1550年代から1580年代にかけては特に多い。

多額の費用を必要とした戦

戦の費用は数十億円規模がザラ

戦国大名にとって最も大きな出費は戦のための費用であった。
近年の調査では、大名の重臣1人あたりの戦のための準備費用が約1億円(銭1文を60〜70円程度と仮定)と試算された。
大名ともなればその規模に応じて数十億円規模の費用を軍備にかけたされる。
これらは戦のための備蓄の費用は、毎年、必要だったわけではないが、一度、戦を行って消費すれば、かなりの費用が必要となった。

戦国大名には商業センスも必要だった

武田信玄や上杉謙信織田信長毛利元就豊臣秀吉徳川家康など、数多くの戦を行った戦国大名は、お金儲けにも卓越した能力を持っていたことがわかる。

お金がないと防衛もできず、その為に国造りが必要だった

民政のための継続的なインフラなどの整備と、領国の防衛のための軍事費など、戦国大名は安定した収入を得ることが必要だった。
そうした経済政策の重要性に関して、理にかなった実績を誇る戦国大名は少なくなかった。

後北条氏の先進的な税制

銭で納める「三税」のみ徴税

小田原・北条氏はもともと早雲の時代から検地を実施するなど先進的であったが、その先進性が特に現れたのが三代・氏康の代である。
小田原北条氏の領国ではさまざまな税が課せられていた。
氏康は複雑な税制にメスを入れ、年貢のほか、銭で納めさせる「三税(段銭・懸銭・棟別せん銭)」だけの負担とした。

税制を工夫し、領民の不満を解消

この改革で村落民の負担総量は実はそれほど軽減されたわけではないのだが、複雑な税制を利用して理不尽に物品を役人に収奪されるようなことはなくなった。
この点は支配される側にも好都合であり、いわば支配される側の不満は相当な部分が解消されたものと考えられる。

善政で知られた後北条氏

戦国時代において5代にわたって関東を支配し、最後まで豊臣秀吉に抵抗できた原動力の1つは、このような先進的な経済政策にあったのである。
のちの後北条氏が治めた小田原は徳川家康に引き継がれるが、後北条氏が敷いた善政は家康も引き継がざるを得なかった。

「楽市楽座」は信長より前からあった

「楽市」は売上税を考慮せず自由な商売ができる「市」

「楽市楽座」といえば信長の経済政策という印象があるが、実際にはそうではない。
鎌倉・室町時代、座に属した商工業者は本所(主君)である寺院や神社などに売上の一部を座公事として貢納する必要があった。
これに対して、売上税を考慮せず、自由な営業・販売を許された区域、すなわち楽市を設定してさまざまな商工業者を領国内に呼び寄せることを、各地の戦国大名がはじめる。

楽市は六角定頼がはじめた

今川氏真も楽市を導入

この楽市を最初にはじめたのは信長ではなく、近江国(現在の滋賀県)を支配した六角定頼である。
定頼は1549年(天文18年)に楽市令を出すが、これが楽市の最初の事例として知られている。
楽市や楽座を行った戦国大名には定頼の他に今川氏真などがおり、織田信長以前に楽市をはじめた戦国大名は複数存在している。

売上税はないが、利用料金はあった

楽市では、売上税がない為、そのままでは戦国大名に直接の利益を生まないが、戦国大名は楽市の利用料金を徴収した。
さらにこの楽市の仕組みを一歩進めて領国内での座の活動を制限する戦国大名も現れるようになった。(ただし、全国的に脈を持ち、神社仏閣の支援がある座を積極的に解体することはほとんどなかった)

信長、独自の座とは

適度に「座」の行動を制限し、経済をコントロール

戦国大名は、領国内での座の行動を制限する代わりに、自らが運営する独自の座を新たに結成していくようになった。
例えば信長は、領国内の商工業を育成する目的から、商工業者の行動を制限するために独自の座を結成させている。
信長が設置した薪座は、身分証となる薪座株を持つ材木商にのみ岐阜の城下での営業を許可するものだった。
その意図としては、無許可での材木・竹林の伐採を禁止すること、すなわち森林資源を守る規制の意味もあった。

信長統治前から岐阜城下に楽市があった

信長が「始めた」ではなく「認めた」

信長の楽市楽座は、自身が立ち上げから執り行った政策ではなく、むしろ既存の楽市を認めるかたちで始まっている。

信長が岐阜城に出した楽市令

1567年(永禄10年)、信長は斎藤龍興が治める美濃国(岐阜県)を戦の末に手に入れる。
稲葉山城は岐阜城と名を改められ、その岐阜城から少し離れた加納という地に楽市令の制札を掲げた。
その制札は信長がはじめて出した楽市令としてだけでなく、現存最古の楽市令の制札として知られている。
制札は木製の掲示板であり、この制札が人々に壊されない限り領主の命令を人々が了承したことを意味した。

自由な商いを保証した楽市令

その制札の内容は「気兼ねなく往来して下さい」「徴税などはしません」「引っ越して来た人は、もともと住んでた人とケンカをしないで下さい」「押買と喧嘩口論は禁止です」「守ってくれない人は処罰します」といったものであった。

統治者が代わった事を伝える意味もあった

加納の地が信長統治以前からすでに楽市だったが、信長の制札は、織田・斎藤家の戦闘が終結を宣言したことを、楽市の商工業者たちに伝えるためのものだった。

信長は金森や安土でも楽市令を出した

模倣と工夫をうまく熟した信長

信長は、加納での楽市令の経験を踏まえて、のちに近江国の金森(滋賀県守山市)や安土城城下においても楽市令を出している。
その際には、交通の要所である金森の特徴をふまえた政策や、安土での商人の自治組織の活動に権限を与えるなど応用度の高い政策をとっている。
先人から学んだ優れた経済政策である楽市楽座を踏襲した上で、より洗練させたのだ。

戦国時代の銭不足

中国銭(銅銭)の輸入が止まってしまう

【撰銭】古い銭は拒んで選りすぐり

戦国時代、中国銭の輸入が途絶えたことで、銭不足に陥っていた。
また、中国銭の多くが摩耗する中、見栄えが悪くなった銭の受け取りを拒む撰銭(悪銭を嫌い良銭を選びとること)が横行し、通用する銭そのものが少なくなっていた。

中国で銅の価値が上がっていた

金と銅が同価値になってしまい、輸入すれば損する事に

それまで日本は金を中国に輸出し、代わりに中国銭を輸入してきた。
これが成り立つのは、金の方が銅銭(中国銭)よりも価値が高かったからである。
ところが15世紀になると中国では金と銅銭の価値がほぼ等しくなってしまった。
これでは輸送費の分、利益が出ないことになってしまう。
そのため、商人たちは生糸など、割高になった中国銭よりも利益が出るものを輸入するようになった。
1470年代になると日本への中国銭の輸出は激減することになった。

小田原では明銭での貢納が可能だった

日本で流通していた中国銭とは主に宋銭であったが、明銭も出回っていた。
明銭は、宋銭よりも利用価値が低く撰銭の対象となったが、関東では明銭の永楽通宝が大量に出回った。
小田原・北条氏は銭建てによる税制を導入したが、課税額を明銭である永楽通宝を示す「永高」と示していることからも、関東で多く流通したことがわかる。
そのため、豊臣政権や続く徳川政権になると永楽銭を基準とした税制への対応を余儀なくされることになった。

撰銭令、納税の際に悪銭は2割まで

古くなった中国銭をずっと使い続けた

銭の輸入が止まったことで、日本国内ではそれまで流通していた中国銭を使い続けることになる。
やがて撰銭が繰り返されるようになったため、15世紀後半から16世紀にかけて撰銭令が出されるようになった。

悪銭を使い続けるための撰銭令

質の悪い中国銭は、受け取りを拒否されることが多いため、大名もあまり受け取りたくはなかった。
しかし、悪銭を拒否してしまうと銭の流通量がますます減少してしまうことになる。
そこで戦国大名は撰銭令を制定して、納税の際に悪銭は2割まで、といった制限を設けたのである。

日本銭が造られるのは江戸時代から

もちろん、これは根本的な解決にはなっておらず、江戸時代に入ってから本格的に日本銭の鋳造が始まり、日本の貨幣によって経済が回されることになる。

武田信玄の銭不足への対応

悪銭納税は全面禁止

武田信玄は悪銭での納税(棟別銭)を全面的に禁止した。
これによって、武田領内の銭不足は加速することになるが、『妙法寺記』には、1542年(天文11年)、1547年(天文16年)、1554(天文23年)、1556年(弘治2年)に「銭の枯渇が起きた」と記録されている。

納税だけでなく、市場でも悪銭使用に制限

さらに信玄は、市場における悪銭の使用にも制限をかけた。

武田領内に金山があった

悪銭より良い物を領内で採集

信玄の領地だった現在の山梨県や長野県などは、海がなく海産物や塩は交易によって入手しなくてはならない地域だった。
しかし、信玄は領地内には金山を持っていた。
甲斐には多くの鉱山があり、江戸時代初期まで産出が続いたが、領内から金が出るのに、無理して古くなった外国銭など使い続けることもなかった。
こうした鉱物資源が信玄の財政を支えたのである。

甲斐武田氏の金山『山川 詳説日本史図録』より引用

【甲斐武田氏の金山】黒川・中山などの甲斐金山は、金山衆とよばれる山師により運営され、武田氏から公事役免除をうけるかわりに、甲州金納入や戦時動員に応じた。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

【甲州金】信玄は独自の金貨

単位は小判でおなじみの「両」

さらに信玄は独自の金貨を鋳造した。
これは甲州金と呼ばれるもので、単位には小判でお馴染みの「両」が用いられた。
この金貨は金の含有量に関係なく、価値が刻印されており(計数貨幣)、現在の貨幣に近い。

甲州金『山川 詳説日本史図録』より引用

甲州金(『山川 詳説日本史図録』より引用)

江戸幕府も甲州金を参考にしたとされる

甲州金の貨幣単位はその後の江戸幕府の貨幣制の参考になった。

【金山衆】採掘技術を戦にも活かした

金を採掘する金山衆は、戦の際には武田軍に加わり、土木における特殊技術を用いて大きく貢献したとされる。
甲斐の金山は信玄の財政と軍事の両面を支えていた。

織田信長の銭不足への対応

悪銭は価値を減らすが使用は可能に

信玄の悪銭に対する対応は豊富な鉱山を所有していたからできた対応であり、他の大名らはやすやすとマネできる事ではなかった。
織田信長は信玄とは対照的な政策を行っている。
きれいな状態の銭を1文とした場合、大きく破損していたり割れたりしている銭は5枚で1文、焼けてしまった銭は2枚で1文といったように状態によって現実的な対応を取ったのである。

悪銭による価格さを利用した商売も出現

こうした銭によって価値が変わる銭の階層化が起きたのである。
16世紀初頭の京都では、このような悪銭を集めて、各地の銭の価格差を利用して利益を得ようとするものも出てきた。
現在の為替相場のようなものが日本国内の中国銭において行われていたのである。


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