武田信玄と上杉謙信、稀代の名将が信州・川中島を舞台に五度も退治する。
特に四度目の戦いである「第四次川中島の戦い」は、戦国屈指の大激戦となった。
しかし、皮肉にもこれらの戦いで武田氏・上杉氏ともに血と時間を犠牲にするだけで、特に得られるモノはなかった。
戦国史上最大のライバル同士の戦いを見てみる。
川中島の戦いは、甲斐の武田信玄(晴信)と越後の上杉謙信(長尾景虎)によって、天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの12年間の間に、5度にわたって繰り広げられた戦いである。
両者が戦いに至ったのは、信濃へ勢力を拡大させた晴信に対し、村上義清ら信濃の豪族が景虎に助けを求めたからだ。
義に厚い景虎は北信濃へ兵を進め、川中島で武田軍と激突したのである。
第一次川中島の戦いは、義清が越後へ逃れた天文22年(1553)に行われたが、本格的な戦いが行われないまま、両軍とも引き揚げた。
続く第二次川中島の戦いでは200日余も対峙したが決着はつかず、第三次川中島の戦いでも武田軍は決戦を避け、殆ど睨み合うだけで終わった。
言うまでもなく、この三度の戦いは単に戦を避けたのではなく、両者ともに確実に勝てる状況を作る事が出来なかった為、合戦に発展しなかっただけである。
ここから如何に信玄と謙信、両者の実力が拮抗していたのかが良く分かる。
永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いでは両軍が真っ向から激突し、歴史に残る戦いとなった。
8月14日、上杉政虎(長尾景虎から改名)は1万2000〜1万6000の軍勢を率いて春日山城を出陣し、妻女山に布陣した。
一方、信玄(出家し改名)も18日に1万(途中で援軍を加え2万へ増強)の兵を率いて甲府を発ち、茶臼山に陣取った後、29日に海津城へ入る。
武田軍は海津城で軍議を開いたが、ここで山本勘助が「啄木鳥戦法」を提案する。
啄木鳥は穴の中の虫を捕まえるとき、木の片方をクチバシで突き、反対側から出るのを待つ習性がある。
啄木鳥戦法とは妻女山に立て籠る上杉軍を攻めて山から下させ、八幡原まで出て来たところで、武田軍本体と別動隊で挟み撃ちにするという作戦であった。
だが政虎はこの戦法を事前に見抜き、武田の別動隊が到着する前に妻女山から兵を下山させた。
9月10日早朝、川中島では深い霧が晴れ始めようとしていた。
しかし、その霧の晴れ間から、突如、上杉軍の馬蹄が響き渡る。
思いもよらぬ上杉軍の奇襲に、武田軍は動揺した。
やがて政虎は全軍に突撃を命じ、武田軍はたちまち切り崩された。
この激戦の最中に、信玄の弟・信繁、諸角虎定、初鹿野忠次、更には啄木鳥戦法を提案した山本勘助が討ち取られてしまう。
信玄の本陣にも上杉軍が迫り、信玄は絶体絶命の窮地に陥った。
だが、午前10時頃、妻女山に向かっていた武田の別動隊が八幡原に到着する。
前後を挟まれた上杉軍は一転して窮地に陥り、善光寺へと退却していった。
結局、勝敗が付かぬまま、第四次川中島の戦いは終結した。
戦死者は武田軍が4600人余り、上杉軍が3400人余りだったとされている。
川中島の戦いは、武田と上杉どちらが勝ったのかは明確にされていない。
戦の上では、上杉が武田を一歩上回ったようにも見える。
しかし、北信濃の武将が武田方に付いた事を踏まえれば、戦略的には武田の勝利であったといえる。
なお、第五次川中島の戦いでは、再び両者ともに合戦を避け、引き分けに終わっている。
現在、伝わっている川中島の戦いは、主に江戸時代に編纂された歴史書や軍記物語に基づくモノが主である。
当時の様子が分かる文献資料は決して多くはなく、また、武田が繰り出した「啄木鳥戦法」や上杉の「車懸りの陣」など、物理的に不可解な点も多い。
川中島の戦いが実際はどのような戦いであったかは、非常に謎が多いのだ。
ただ、この戦を通じて、武田も上杉も特に得られるモノがなかった事は確かである。