
古代エジプトやインダス文明と同様に、非常に古くから栄えたシュメール文明は、最古の都市国家を持つことで知られる。
しかし、その民族や言語は殆ど未解明で、現在も議論されている。
>> シュメール文明興亡史の年表
ナイル川流域に栄えた古代エジプト文明が、ピラミッドに代表される石の分化だとすると、チグリス・ユーフラテス川流域に栄えた古代メソポタミア文明は、粘土の分化だといわれる。
メソポタミア地方は考古学的には南北二つに分けられる。
北部をアッカド、南部をシュメール、後に両者を合わせてバビロニアと呼ばれる。
北部にはセム系民族が住み、南部に住んでいたのが謎の民族といわれるシュメール人である。
メソポタミア南部は、雨の少ない乾燥した砂漠であり、鉱物を一切産出せず、地表に石を見つける事すら難しい。
しかも自然の気まぐれと、絶えずコースを変える2つの大河は、この地方に時として大きな洪水を引き起こし、人々の生活を全て泥水で押し流してしまうのだ。
このように恵まれない土地だったにも関わらず、シュメール人たちは、日干しレンガで神殿や住居を建て、都市を築くという人類最古の文明をこの地に築き上げた。
紀元前3100年頃には、ウル、ウルク、エリドゥ、ラガシュ、キシュなどの都市は、大小の運河を整備し、神殿と城壁を持つ都市国家として出現していた。
それぞれの都市が守護神を持ち、近郊の農地から大麦を中心に豊かな収穫をあげていた。
行政経済の粘土板文書によれば、大麦は播種量の約80倍の収穫をあげたことが記されている。
シュメール文明の画期的な発明といわれる文字の使用は、ウルク期末にあたる紀元3200年頃にさかのぼる。
最初は素朴な絵文字として始まったこの文字は、いくつかの段階を経て、前2500年頃には楔形文字として完成され、各都市で使用された。
粘土板の上に葦(アシ)の茎を押し付けて書くこの文字で、シュメール人たちは、人類最古の文学として知られる「ギルガメシュ叙事詩」の原型や、神殿経営の実需を示す大麦の給付量や家畜の頭数、さらにそれらにまつわる様々な数字の計算を残してきたのである。
これほど早い時期に豊かな文明を築き上げたシュメール人とは、どんな民族であったのか?
これは、考古学上未解明の謎なのだ。
彼らがいつ、どこからメソポタミア南部にやって来たのか、そして、彼らが話していたシュメール語がどのような言語系統に属していたのか。
これらの問題は全て分かっていない(シュメール問題)。
シュメール語は、これまで様々な言語と比較研究されてきたにも関わらず、親戚関係にあたる言葉すら分かっていない。
全く系統不明の言語なのだ。
同じように系統不明の孤立した言語は、スペインのバスク語、カフカスのグルジア語、それに日本語など、相互に関連付けようとする試みは成功していない。
シュメール人の故郷はどこか、という問題も未解明な部分が多い。
旧約聖書の創世記第11章には、ノアの子孫たちの移動について次のような記述がある。
「そのとき人々は、東から移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、定住した。」
聖書に述べられたこの「シヌアルの地」こそシュメールを指すと今日では一般に考えられている。
このような聖書の記述や、土器の比較によって、シュメール人の故郷は現在のイラン南西部のあたりとする説がある一方、シュメール人はペルシャ湾を渡って来た漁労の民族だとする考え方もある。
考古学的には、メソポタミア北部の初期農耕文化との共通性が指摘されている。
いまだに、シュメール人は全く謎の民族なのである。
シュメール人以前に住んでいたと考えられる先住民のウバイド人と、シュメール人との繋がりも気になるところだ。
メソポタミアにはシュメール語で理解できない地名が幾つかある。
ウルクやニップールといった都市の名前、それにユーフラテス川の本来の名前である「ブラヌン」などもシュメール語では理解できないのだ。
おそらく先住民の言葉が残ったものなのだろう。
この先住民については、地中海に起源を持つドラヴィダ系民族ではないかと指摘もあるが、やはり、詳細は未解明である。
紀元前2000年頃に編纂された「シュメール王名表」によると、シュメールの歴史は大洪水によって2つに分かれている。
洪水前に天から王権が下ったのは、南の最も海岸に近い都市エリドゥで、全部で5都市8人の王が24万1200年間支配したと述べている。
いわば神話的な記述である。
洪水後、再び天から王権が下ったのは、今度は北部のアッカド地方に近い都市キシュだという。
王名表によれば、キシュの初期の王の名前には、セム系のものが含まれている。
近年、シュメール語が解読されるようになると、系統すら分かっていないシュメール語の中に多くのアッカド語(セム系言語)が混じっている事が分かってきた。
例えば、戦争に関する単語の多くはアッカド語からの借用語だ。
これはシュメール人が本来、戦争を知らない平和的な民族だった事を物語っている。
しかし、彼らは決して戦いをしなかったという事ではないようだ。
初期王朝時代、ラガシュとウンマという都市国家間で「エデンの首」と呼ばれる境界をめぐり、大きな紛争があった事を粘土板は伝えている。
いずれにしても、シュメール人はかなり早期から多民族と接触していたのは事実だろう。
彼らがいつ、どのような形でメソポタミアの地で活動するようになったかは不明だが、一つの民族として集団を固く保っていたというよりは、早い段階で他の他民族との融合は進んでいたとみる方が自然かもしれない。
それを示す証拠の一つとして、シュメール人の粘土板の記録には、各国の地名が度々登場する。
ディルムン、マガン、メルッハという3つの謎の地名もそうだ。
これらの土地から石や材木、金や銅を輸入し、シュメールからは穀物などを輸出していた。
資源に乏しいシュメールでは貿易は不可欠だった。
だが、この3つの地名がどこを指すかについては、研究者の間で議論されているところである。
現在、ディルムンはペルシャ湾にあるバーレーン島とするのが普通だが、マガンについては、アラビア半島のオマーンとする説や、エジプトとする説もある。
メルッハはさらに遠く、インダス河口とする説の他、エチオピアとする説もある。
シュメール文明は、メソポタミアだけの狭い範囲ではなく、エジプトなど、他の古代文明と交流があった事が推定されている。
ウルの発掘では、インド製とみられるメダルが出土しており、特にインダス文明との接触は強く示唆されている。
シュメールでは牛と鋤による農耕が行われていたが、牛と鋤を使った耕作は本来インド起源である。
それがメソポタミアやエジプトに伝わったのかもしれない。
都市国家として発展したシュメール文明は、紀元前2350年頃、サルゴン率いるアッカド王国に征服され、セム人の支配を受ける。
この時代に都市国家の垣根は取り外され、メソポタミアは一つの領土国家となる。
さらに、山岳民族のグティ人(現在のクルド人と同じ民族ともいわれる)の支配が始まり、この地方は暗黒時代を迎える。
多くの像が見つかっているグデア王が、ラガシュで独立したのも、この時代の事だ。
だが、やがてシュメール人は自らの支配を取り戻し、紀元前2060年頃、ウル第3王朝として復活する。
ウル・ナンム王以下5代の王たちからなるウル第3王朝は、100年程の短命王朝ではあったが、シュメール文明として最も繁栄した栄光の時代である。
そして、ウルを首都とする中央集権国家体制が完成した時代でもあった。
ウル・ナンムは最古の法典を制定した事で知られており、その時期はハンムラビ法典よりも300年以上も前である。
しかし、この時代を最後に、シュメールの栄光はメソポタミアの歴史から姿を消してしまう。
王朝末期には、西からセム系のアムル人、東からはエラム人の侵攻を受け、前1950年頃、ウル第3王朝はとうとう滅亡してしまう。
シュメール人も、国内に侵攻して来た多くのアムル人の中に同化していったものとみられる。
だが、彼らの発明した楔形文字は、のちの多くの民族に受け継がれた。
口語としてのシュメール語は消滅したが、学問や文化としてのシュメール語は、各民族の対訳辞書の中に残された。
それは、ヨーロッパにおけるギリシャ語やラテン語と同じ役割を担ったのである。
僅かに痕跡を留めたシュメール文明は、現在も多くの謎に包まれている。
時代 | 王朝 | 主な出来事 |
---|---|---|
BC5000年頃 | ウバイド期 | 初期の集落が出来る |
BC3500年頃 | ウルク期 | 都市形成期 灌漑農業や交易が始まり、ウルクで絵文字の使用が始まる |
BC3100年頃 | ジェムデッド・ナスル期 | 都市国家が成立する |
BC2900年頃 | 初期王朝期 | シュルッパクで古拙文字(こせつもじ)が使われる(楔形文字の前段階) |
BC2700年頃 | キシュ、ウルクで第1王朝成立(ギルガメシュの時代の可能性が指摘される) | |
BC2600年頃 | ウルで第1王朝成立 | |
BC2500年頃 | ラガシュでウル・ナンシェ王朝成立 ディルムン、マガン、メルッハと交易 | |
BC2350年頃 | アッカド王朝期 | キシュ出身のサルゴンが領土を統一、アッカド王国となる |
BC2200年頃 | - | アッカド王国が滅亡し、山岳民族のグディ人の支配を受ける ラガシュでグデア王が独立 |
BC2060年頃 | ウル第3王朝期 | ウル・ナンムがウル第3王朝を興す |
BC1950年頃 | - | ウル第3王朝が滅亡する 以後は、混乱期を経て、バビロニア時代へ |