ヌルハチ(1559〜1626年)は中国大陸で栄えた清の初代皇帝。
建州女真(けんしゅうじょちょく)の部族長から、他の女真を統合して、女真族(後の満州族)の統一に成功した。
後金(後の清)を建ててハンに即位した後、八旗制の整備や満州文字の創設を行う。
サルフの戦いで明に勝ち、勢力を拡大し、遼東平野にまで進出する。
ヌルハチの祖父であるギオチャンガは当時、建州5部、海西4部、野人4部の13部に分かれていた女真族(じょちょく)のうち、建州女真の一部族長だった。
その第四子であるタクシの長男として生まれたヌルハチは、10歳で生母を失くしている。
その後、父と再婚した継母にはつらく当たられたようで、19最で独立する際にも、継母に言い含められたタクシからは男女数人のアハ(召使)と2頭の馬、4頭の牛しか与えられなったという。
それでも、ヌルハチは苦労しながら商売などで身を立て、自らの勢力を確保していった。
ところが、25歳になった1583年にある事件が起きる。
明の遼東地方総兵官だった李成梁(りせいりょう)が、祖父ギオチャンガと対立する女真族にそそのかされて、ギオチャンガとタクシを殺害してしまったのだ。
怒ったヌルハチは挙兵したが、李成梁が「お前の父と祖父を殺したのは誤りだった」と認めた為、ヌルハチは矛を収めた。
その後は、李成梁の庇護を得て明との交易を独占し、富を蓄えると同時に軍備を増強する事で、建州女真5部を統合していった。
しかし、これには李成梁の側にも思惑があったのだ。
ヌルハチを背後から操る事で、女真族を間接統治しようと考えていたのだ。
その後、明から建州衛都督僉事(けんしゅうえいとくせんじ:明の軍事官職)に任ぜられるなど、勢力を拡大したヌルハチは、一旗7500人からなる八旗軍を創設するなど、軍事力の増強に努め、1616年には後金(こうきん)を建国する。
ところが、ヌルハチの後ろ盾だった李成梁はこの頃には既に引退しており、その後、明の対女真族政策は伝統的な分断策に戻っていた。
さらに、かつて華北を支配した女真族国家・金の復活を思わせる国名に危機感を抱いた明は、ヌルハチを圧迫し始める。
これに対し、ヌルハチは父や祖父を殺害された事などを列挙した「七大恨」を掲げて明に宣戦。
10万に及ぶ明の討伐軍をサルフの戦いで撃破する。
勢いにのるヌルハチは最後まで抵抗していた海西女真のイェヘを滅ぼしたほか、瀋陽(しんよう)、遼東(りょうとう)などに進出した。
しかし、明の「万里の長城」の東端にあたる山海関外の寧遠城(ねいえんじょう)を絶対防衛ラインとして死守しており、ポルトガルから購入した11問の巨砲で後金軍は撤退を余儀なくされる。
さすがのヌルハチも西洋式の最新兵器の威力に敗れ、この時の傷が元で死去しており、明の打倒は息子や孫に託された。
西暦 | 主な出来事 |
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1559年 | 建州女真の部族長ギオチャンガの孫としてヌルハチが生まれる |
1583年 | 祖父ギオチャンガと父タクシが李成梁に殺害される ヌルハチが家督を継ぐ |
1589年 | 明か建州衛都督僉事に任じられる |
1593年 | 海西女真のイェヘやモンゴル族を含めた9部族の連合軍を撃破し、女真族をほぼ統一する |
1599年 | いわゆる満州文字を制定する |
1616年 | スレ=ゲンギエン=ハン(英明皇帝)に推戴される 後金を建国する |
1618年 | 「七大恨」を掲げて明に宣戦 |
1619年 | サルフの戦いで明軍を撃破 |
1626年 | ヌルハチが死去する ホンタイジ(太宗)が即位する |
1635年 | 民族名を女真から満州に改称する |
1636年 | 国号を清に変更する |
1637年 | 朝鮮を服属させる |
1638年 | 六部、理藩院などを設置 |
1643年 | 順治帝が即位する |
1644年 | 李自成の乱で明が滅亡する 清軍が山海関を超えて北京の李自成軍を打倒する 清が中国を支配する |