「エジプトはナイルの賜物」という言葉通り、エジプト文明はナイル川の恩恵の下で、豊かに華開いた。
ナイルの水量には定期的な増減のサイクルがあり、多雨が原因となって、ナイル川の水量が増え、川が氾濫し耕地の全体が冠水してしまう。
水が引くと、ナイルが上流から運んできた沃土が堆積しており、耕地は豊かに復活する。
古代エジプトの人々は、ナイルの氾濫と共存する事で、栄えていった。
エジプトの中央を南から北へ流れる大河ナイルは、極めてゆったりとしている。
この川の周りに育まれた数千年の歴史を象徴しているかのような流れだ。
ギリシアの歴史家「ヘロドトス」が残した「エジプトはナイルの賜物」という言葉は、エジプト文明がナイル川の恩恵の下で、豊かに華開いた事を端的に表している。
ナイル川は中央アフリカのヴィクトリア湖に水源をもつ白ナイルと、エチオピアのアビシニア高原に端を発する青ナイル、そして同じくアビシニア高原から青ナイルとは流れを異にするアトバラ川の3本が合流してアフリカ大陸北東部の砂漠を流れている。
そして、この長い流れがエジプトに恵みをもたらした。
アスワン・ダム、アスワン・ハイ・ダムの2つのダムが出来るまでは、ナイルの水量には定期的な増減のサイクルがあった。
特に水源の一つ、アビシニア高原の夏季の多雨が原因となって、毎年7月にはナイル川の水量が次第に増え、8〜9月には耕地の全体が冠水してしまう。
10月に水が引くと、後にはナイル川がはるか上流から運んできた沃土が堆積しており、耕地は豊かに復活する。
この時に、ナイルの水が及ばなかった場所は不毛の砂漠となってしまう。
冠水の後は、そこにあった全ての物が流されており、その光景は、混沌としていたものだった。
しかし、やがて植物が芽吹き、穀物が実る。
収穫後は枯草ばかりの地となってしまうものの、ナイルの増水によって、再び新たな生命がもたらされるのだ。
こうした自然の輪廻の現象から、古代エジプトの人々には、生命の再生復活の思想が根付いていったといわれる。
エジプトの風景は、緑豊かな耕地と、赤茶けた砂漠が強烈なコントラストを描いている。
「生」と「死」という、相反する世界が同時に存在しているのである。
この対照的な世界が、人々の死生観に、大きく影響しているようだ。
色彩感においても、植物の緑と、水の青は生命を象徴しており、砂漠を連想させる赤や赤茶色は、死や冥界を象徴していると考えられた。
さらにナイル川の特徴的な事は、スーダン中北部のアトバラ川が合流して以北は、河口のデルタ地帯まで約2500qの間、一本の支流もない事である。
エジプト国内ではナイル川が唯一の川である。
このために、ナイル川の流れる方向、上流と下流(南北)、川で二分された大地(東西)、つまり太陽が昇る地と太陽が沈む地が強く意識されている。
特に東側は生者の世界、西側は死者の世界という独特の世界観が出来あがっていった。
ナイル川流域で人類が生活し始めたのは、今から数十万年前、歴史の分類では旧石器時代前期の事と考えられている。
それから氷河期の終わる1万年前まで、サハラ砂漠やナイル川周辺はサバンナ性気候で、ゾウやライオン、キリンなどの動物が生息し、人々は狩猟、採集によって生活していた。
氷河期が終わり、前8000年頃から前6000年頃にかけて、北アフリカから西アジアの広い地域で乾燥化が進んだ。
緑地が少なくなるにつれ、人々はナイル川周辺の狭い緑地帯に集まった。
特に西アジアから羊や牛の牧畜、小麦や大麦の農耕が伝えられた事は、エジプト文明を育む切っ掛けとなった。
エジプトでの新石器文化、農耕の始まりは前5000年頃とされている。