オランダ(ネーデルラント)の独立

歴史まとめ.net > 世界史 > ヨーロッパ

国際商業国家 オランダ(ネーデルラント)

毛織物工業、バルト海交易など商業が発達していたネーデルラント。
宗主国スペインの圧政への反発により、1568年に独立戦争が勃発する。
長期化する戦争を戦いながら、1581年には独立を宣言し、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が成立する。
そして商人国家オランダは世界へ進出し、国際商業の中心になっていった。
江戸時代、250年もの間、鎖国を貫いた日本でも、長崎県の出島にオランダ商館を置き、商業国家としての地位を築いている。

スペインの支配から独立し、世界各地へ進出したオランダ

15世紀からハプスブルク家の支配下にあったネーデルラント
ネーデルラントは早くから毛織物工業で栄え、バルト海交易など商業も発達、宗教は利潤追求を認めるカルヴァン派が多数を占めていた。
しかし、16世紀後半になって宗主国スペインのフェリペ2世がカトリックを強制し、都市に重税を課すようになると、貴族や商工業者はこれに反発する。
1568年にはオラニエ公ウィレムを指導者として、オランダ独立戦争が始まった。

商業国家オランダの成立

戦争が長期化すると、カトリックが多かった南部の10州は脱落したが、北部7州はユトレヒト同盟を結んで戦いを続け、1581年には独立を宣言する。
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が成立した。
そして1609年にスペインと休戦した後、1648年のウェストファリア条約で正式に独立が承認された。

世界中に進出し、国際商業の中心となる

オランダは当時、最先端の造船技術を持ち、独立戦争中も「海洋の自由」を主張して、アメリカなどに進出していた。
1602年にはイギリスに続いて東インド会社を設立し、バタヴィア(現インドネシアのジャカルタ)を拠点として、日本を含むアジアの諸地域にも進出。
アムステルダム国際商業の中心都市として繁栄した。

「オランダ」と「ネーデルランド」の違い

オランダ」というのは日本での呼び方であり、本来の国名は「ネーデルランド(The Netherlands)」である。
もともとネーデルランドとは「低い土地」という意味である。
しかし、意味のある言葉が国名では紛らわしく、ヨーロッパではネーデルランドの事を「ホラント」と呼んでいたという。
※ホラントとは、オランダの中心だった州の名前

「オランダ」とは日本語訛り

そこで、室町時代後期に日本にやって来たポルトガルの宣教師たちは、ネーデルランドの事を「ホラント」と呼んでいた。
それがさらに、日本語に訛って、「オランダ」と呼ばれるようになったのである。

17世紀 オランダの世界進出

独立前から優れた造船技術で世界の海運を左右していたオランダ。
1602年には東インド会社を、1621年には西インド会社を設立し、世界各地に進出している。

南北アメリカ

ニューアムステルダム(ニューヨーク)
北米にニューネーデルラント植民地を建設するが、英蘭戦争でイギリスに奪われる。
中心地ニューアムステルダムはニューヨークに改称された。
ギアナ
南米のギアナは、重商主義政策に則って植民地争奪戦を繰り広げたイギリス・フランス・オランダによって分割された。

アフリカ

ケープ植民地
インド洋航路の要衝としてオランダ東インド会社が領有するが、19世紀初頭にイギリスに奪われた。

アジア

日本
鎖国していた江戸時代の日本で、唯一来航が許されたのがオランダ船であった。
1808年のフェートン号事件では、長崎に来航したイギリス船が、オランダ国旗を掲げる事で、日本側を偽る事件が起こっている。
台湾
1624年、スペインと共に台湾を占領するが、1661年に明の軍人である鄭成功(ていせいこう)によって撃退される。
バタヴィア(インドネシア)
オランダ東インド会社が領有。
1623年のアンボイナ事件を機にイギリスを駆逐し、アジア植民地統治の中心となった。

↑ページTOPへ