フランス革命の中から登場した英雄ナポレオンが皇帝に上り詰める。
フランス革命の理念によるヨーロッパ統一を目指して、各地に遠征するがイギリスやロシアとの戦いに敗北する。
ヨーロッパの統一に失敗し、ナポレオンは最終的に失脚してしまうが、ナポレオンが残した法典そのものは、現在も機能している。
>> ナポレオン戦争 年表
血なまぐさい革命の混乱が続いていたフランスでは、社会の安定をもたらしてくれる強力な指導者の登場が待ち望まれていた。
そんな中、コルシカ島出身の将軍ナポレオン・ボナパルトが、王党派の反乱鎮圧やイタリア、エジプトへの遠征などで成果を上げ、急速に台頭してきた。
1799年、ナポレオンはクーデターによって総裁政府を倒し、自らが第一統領となる統領政府を樹立した。
次いで1802年には、国民投票によって終身統領となった。
フランス銀行の設立、教育制度の整備、近代市民社会の原理をまとめた「ナポレオン法典」の制定などを進めて国民の圧倒的な支持を得、1804年、ついに皇帝となった。
ナポレオンが行った諸政策の中でも、取り分けナポレオン法典は民法典の模範として、世界各国の法制に大きな影響を与え、日本の現行民法もその影響を受けている。
度重なる改正で内容は変更されているが、法典その物は現在も用いられている。
フランス革命の理念によるヨーロッパ統一を目指す皇帝ナポレオンに、イギリスが恐れを抱き、1805年に第3回対仏大同盟を結ぶ。
トラファルガー沖の海戦でイギリスに敗れたナポレオンは、大陸を制圧する為、神聖ローマ帝国を解体してライン同盟を結成させると共に、大陸封鎖礼を出して、イギリスとの通商を禁じた。
しかし、ナポレオンの大陸封鎖礼に打撃を受けたロシアがイギリスと密貿易を開始する。
これを止める為、ナポレオンは懲罰としてロシア遠征を敢行したが、惨敗を喫した。
また、ナポレオン軍に侵略された事で、ナショナリズムに目覚めた諸民族が、一斉に蜂起する事態となった。
諸民族の蜂起を受けて、遂にナポレオンは退位、エルバ島に流刑となった。
フランスは王政に復古して、ブルボン家のルイ18世が即位したが、15年にナポレオンはエルバ島を脱出して、皇帝に再び即位した。
しかし、ワーテルローの戦いで敗れ、大西洋のセントヘレナ島へ送られた後、そこで生涯を閉じた。
西暦 | 出来事 |
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1796年 | 第1回イタリア遠征 イタリアにおけるオーストリア勢力を牽制する為に行ったフランス軍の遠征。 青年将校であったナポレオンが司令官に任じられ、オーストリア軍を破る。 |
1798年 | エジプト遠征 イギリスのインドへのルートを断つために行ったフランス軍の遠征。 この遠征中に発見されたロゼッタ・ストーンは、古代エジプト研究に絶大な影響を与えた。 |
1799年 | ブリュメール18日のクーデター ナポレオン第一統領に就任 |
1800年 | 第2回イタリア遠征 |
1804年 | 皇帝に即位(第一帝政) |
1805年 |
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1806年 | 大陸封鎖礼(ベルリン勅令) |
1808年 | マドリード市民の蜂起 ナポレオン軍に占領されたマドリードの市民が蜂起し、市街戦となる。 反乱はスペイン全土に拡大し、市民や農民はゲリラ戦でナポレオン軍に抵抗した。 |
1810年 | ロシア、大陸封鎖礼破棄 |
1812年 | モスクワ占領 ロシアに遠征したナポレオン軍はモスクワを占領したが、クトゥーゾフ率いるロシア軍の焦土作戦により兵糧(食料)が不足し、厳しい寒さの中での撤退を余儀なくされ、壊滅的な敗北を喫した。 |
1813年 | ライプツィヒの戦い(諸国民戦争) プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍がナポレオン軍を破った戦い。 連合軍は翌年パリを占領し、ナポレオンは退位。 地中海のエルバ島へ配流となった。 |
1815年 |
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1821年 | ナポレオンが52歳で死去する。 |