韓国併合

日本による韓国併合

1910年8月から1945年9月の35年にかけて朝鮮半島は大日本帝国によって併合された「韓国併合」の時代を迎えた。
李氏朝鮮は国号を「大韓帝国」とし近代化を試みるが、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した。

朝鮮半島を巡り日清・日露が開戦

日清戦争(1894年)の目的の一つに、朝鮮を清国から切り離すという事があった。
日露戦争にも、韓国(この時は李氏朝鮮から大韓帝国へ国家が代わっていた)・満州を巡る日本とロシアの対立という側面があった。

朝鮮半島には軍事的な意義があった

ロシアとの開戦直前、日本はロシアに「満韓交換論」(ロシアの満州での権益を認める代わりに日本は韓国についての優先権を持つ)を持ち掛けていた。
日本にとって韓国は最も近い隣国であり、ロシアとの緩衝地帯として確保しておきたい地域であった。

当時の風刺画

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている

日本が朝鮮内政に介入を始める

日露戦争が始まると、日本は韓国と第一次日韓協約を締結する。
日本人顧問を韓国政府に送り、財政や外交などの発言権を得た。(日本が韓国の外交・財政に介入する事が認められた)

アメリカは日本の韓国介入に同意していた

1905年7月の桂・タフト協定では、日本はアメリカのフィリピン統治を認め、アメリカは日本の韓国に対する指導的地位を認める事で合意した。

日本が戦争に勝利

1905年9月4日、日露戦争の講和条約としてポーツマス条約が結ばれ、ロシアは朝鮮での日本の優先的地位を認めた
日露戦争に勝利した日本は、米英ら国際社会に日本の韓国統治を認められた上で、11月に第二次日韓協約を締結した。

韓国統監府、韓国併合が進む

当時、朝鮮半島では、中国・ロシア・日本ら外国勢力によって国内の統治が乱れていた為、韓国の外交権は実質的に日本に移っていた。
ここに韓国は実質的に日本の保護国となり、日本は統監府を設置した。
初代の韓国総監には伊藤博文が任命された。

韓国皇帝・高宗の抵抗

ハーグ密使事件

日本による韓国併合は、全ての韓国・朝鮮人が納得して行われた訳ではない。
1907年6月、大韓帝国皇帝・高宗(ゴジョン)はオランダ・ハーグで行われていた万国平和会議に、日本の不法行為を訴える密使を送る。
しかし、既に韓国は外交権を失っているとみなされ、会議の出席を拒絶されてしまう。
協約の無効を訴える計画も存在したが、失敗に終わる。

高宗が退位に追い詰められる

総監の伊藤はその高宗の動きを察知しており、高宗に警告を発していたが、高宗はそれを無視する形で密使を派遣しており、伊藤は激怒した。
伊藤は韓国統監の主導的立場を強める必要を感じ、韓国政府の内政権剥奪に向け動き始める。
立場を危うくした高宗は、伊藤総監の意を受けた韓国・李完用総理からの譲位要請を受け、子の純宗へ譲位し退位に追い詰められる。

韓国併合の過程

第三次日韓協約

韓国から外交権と軍が奪われる

高宗の退位後、1907年7月24日に第三次日韓協約が結ばれる事となる。
この協約によって、韓国では外交権だけでなく内政権も日本にとられる事となり、同時に交わされた秘密覚書に基づき、8月1日に軍隊が強制的に解散される。

韓国で抗議運動が起こる

義兵運動

この頃には義兵運動と呼ばれる武力闘争を含む大規模な反日運動が起こるが、特に、統監府による韓国軍隊解散を切っ掛けに激化した。
さまざまな階層を含む広汎な反日運動であった。

日本による反攻運動の弾圧

韓国民衆による大規模な反攻運動に対し、日本は警察や陸軍を投入した。
約二年後の1909年3月には武装抵抗が下火になる。

韓国併合を閣議決定

小村寿太郎外務大臣は、桂太郎総理に、韓国併合に関する方針を提示。
この方針に対し、韓国総監の伊藤博文も同意を与えるが、伊藤自身は6月に総監を辞任した。
7月、桂太郎内閣は韓国併合の断行を閣議決定した。

伊藤暗殺が韓国併合を早める

1909年10月26日、伊藤は満州情勢を安定するべく訪れたハルビンの駅頭で、韓国の抗日運動家によって暗殺される。
12月22日には、韓国政府の総理として第三次日韓協約に調印した李完用も刺されて重傷を負う。
日本政府はこうした事件を利用し、併合の機運を高める。

韓国併合条約

1910年8月22日、漢城(現在のソウル)で、陸軍大臣で韓国総監を兼務していた寺内正毅と韓国の李完用総理との間で「韓国併合ニ関スル条約」が調印される。
寺内がそのまま初代の朝鮮総督となり、韓国は日本が統治する事になった。

日本の朝鮮統治は敗戦まで

朝鮮総督府による統治のもと、朝鮮は日本の統治下となる。
この後、日本と朝鮮は人々の交流が盛んとなり、多くの韓国・朝鮮人が日本へと入って行った。
この後、第二次世界大戦によって日本が敗戦を迎えるまでの36年間、朝鮮は日本によって統治された。

大韓民国臨時政府

李承晩による自称・亡命政府

大韓民国臨時政府は、1919年(大正8年)、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮の独立運動組織。
日中戦争勃発後は所在地を上海から重慶に移した。
たえまない党派間の対立と連合を続けていたため、蒋介石や中国国民党が党派間の融和ために指導を行っていた。
臨時政府はポーランド亡命政府のように第二次大戦に参加しておらず、国際的な承認は得られていない。

1936年のソウル

日韓併合時代中、1936年のソウル南大門通り


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