帝国主義と植民地獲得競争

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列強の帝国主義が世界を分割

19世紀後半以降、帝国主義化した欧米列強は、市場と原材料供給地を求めて植民地獲得競争を繰り広げ、世界をくまなく分割した。
この植民地獲得争奪戦には、アメリカやイギリスなどの大国や、日本などの小国も参戦しており、後の世界大戦へと繋がっていく。

帝国主義政策の台頭

イギリスの覇権の陰り

産業革命によって、国内工業力を大きく高めたイギリスは、世界の工場とも呼ばれ、19世紀半ばまで世界経済の中心であった。
しかし、1870年代からの不況で各国が保護関税政策に転換するようになると、自由貿易政策の下で繁栄を保ってきたイギリスの覇権に陰りが見え始めた。

第2次産業革命で各国が帝国主義へ

イギリスの覇権が揺るぐなか、不況を乗り切るため、特にアメリカやドイツに企業の集中が進む。
鉄鋼や化学、機械など大規模な設備投資を要する分野での技術革新が進み、第2次産業革命が起こった。
こうした工業化や保護関税政策の推進にともない、新たな自国製品の市場や、また原料の供給地を確保する必要性が出来てきた。
こういった問題を解消する為、列強各国は新たな植民地獲得を目指す、帝国主義政策を推進するようになった。

アフリカの分割と激化する植民地獲得競争

イギリスによって始められたアフリカ政策

アフリカでは1880年代以降、一気に植民地化が進んだ。
その主役となったのは、イギリスであった。
イギリスは、エジプトのカイロとアフリカ最南端のケープタウンを結ぶ縦断政策を進めていた。
なかでも、ケープ植民地首相のセシル・ローズは、拡張政策を推し進め、1899年に金やダイヤモンドの資源を狙って南アフリカ戦争(ボーア戦争)を引き起こした。
そのイギリスに対抗したのがフランスであった。

フランス・ドイツ・イタリアらも参加

フランスは、アルジェリアからアフリカ東岸に向けて横断政策をとっており、英・仏両国の利害対立は1898年のファショダ事件などで顕在化した。
また、ドイツがカメルーンやタンガニーカ(現タンザニア)を、イタリアがリビアやソマリランドを、さらにはベルギーが今後を植民地化するなど、ヨーロッパ列強は競ってアフリカ分割に参加した。

アメリカの帝国主義政策

一方、19世紀末には世界最大の工業国となったアメリカ合衆国は、1898年の米西戦争でフィリピンやグアムなどを獲得する。
さらにハワイを併合して太平洋地域への勢力拡大を本格化させ、カリブ海諸国に対しては、内政に武力で干渉する棍棒外交を展開した。

ロシアと日本も植民地獲得に乗り出す

その他の国々も、列強の後を追うように植民地政策を行っている。
ロシアは東アジアや中央アジア、バルカン半島へ進出。
日本は朝鮮半島や中国へ進出しており、帝国主義政策による植民地獲得競争は世界各地で展開された。
そして、激化した列強の勢力争いは、やがて第一次世界大戦へとエスカレートする事になる。

この時代の主な出来事

ロシアの南下政策 1858年〜
1858年のアイグン条約と60年の露清北京条約により、清からアムール川流域及び沿海州を獲得。
東アジアへの進出を果たした。
アフリカ分割 1884年〜
1884〜85年、ベルリン会議で「無主の土地への先占権」が認められ、以後列強によるアフリカ分割が急速に進んだ。
結果、アフリカでは輸出用作物の強制栽培などによりモノカルチャー化が進み、アフリカの社会・経済は大きな打撃を被った。
ファショダ事件 1898〜1899年
1898年、アフリカ縦断政策を進めるイギリスと、横断政策を進めるフランスがスーダン南部のファショダ(現コドク)で遭遇した。
英仏軍事衝突の危機を招いたが、1899年の協定で妥協が成立した。
米西戦争 1898年
キューバで起きた反スペインの独立運動を利用したアメリカは、1898年、ハバナ湾での米軍艦爆沈事件をスペインの仕業と決めつけ宣戦。
スペインからフィリピンとプエルトリコ、グアムを奪った。
南アフリカ戦争(ボーア戦争) 1899〜1902年
オランダ系ボーア人が支配するオレンジ共和国、トランスヴァール共和国で金やダイヤモンドの鉱脈が発見される。
すると、これらの利権獲得を狙ったイギリスは両国の併合を企図、ボーア戦争を仕掛けた。
結果、両国はイギリスのケープ植民地に併合された。
日本の大陸進出 1904年〜
明治維新後、欧米列強にならい植民地獲得を目指した日本。
同じく、南下政策を進めていたロシアと日露戦争を戦い、韓国(朝鮮)を併合した。
この後も日本は、満州を始めとした中国大陸への進出を行っていく。
モロッコ事件 1905〜1911年
英仏協商でフランスのモロッコ支配、イギリスのエジプト支配が相互承認された事にドイツが反発した。
ドイツのヴィルヘルム2世は、1905年と1911年の2度にわたってフランスによるモロッコの保護国化を覆そうとしたが失敗に終わった。
パナマ運河開通 1914年
フランス人レセップスが1881年に着工したが失敗。
その後、アメリカが運河建設の為、パナマ共和国をコロンビアから強引に独立させ、1903年に運河建設地帯の管理権を獲得。
1914年にパナマ運河が完成した。
アメリカのカリブ海政策 1900年代
米大統領セオドア・ルーズベルトは、キューバを半植民地化するなど、カリブ海を自国の勢力下に置く政策を推進した。
その方法は軍事力を背景とした強引なもので、棍棒外交と呼ばれた。

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