ヒトラーの青年期

ヒトラーの青年期

ヒトラーはもともとはドイツではなくオーストリア出身であった。
ウィーンで画家としての夢が潰え、暗い日々を過ごすが、ミュンヘンへ移った後には第一次世界大戦に志願し参戦。
その後はドイツ労働者党に参加、政治の道へ進む。

屈折した青年時代を過ごしたヒトラー

もともとはオーストリア出身

アドルフ・ヒトラーは、オーストリア(正確にはオーストリア=ハンガリー二重君主国)生まれのオーストリア人だった(36歳まで)。
父のアロイスは税官吏、母のクララはアロイスにとり3番目の妻だった。

家庭唯一の男子で、母から溺愛される

9人いた子どもの過半は幼少時死亡(長男は出奔)、アドルフが結果的にヒトラー家唯一の男子となり(他に異母姉と妹の2人)、母は彼を溺愛した。

学業の意思を失い、学校を中退

進路をめぐり父と対立、その父が他界する

幼少時、父の職業柄、転勤に伴う引っ越しを繰り返す不安な生活が続いていた。
ようやく、父の最終的任地リンツで落ち着いたものの、進路をめぐり対立していた父を1903年に亡くしてしまう。
その後、アドルフは、中等実科学校前期課程を何とか修了したあとは全く学業継続の意思を失い、1905年秋に中途退学してしまった。(以下、「アドルフ」は「ヒトラー」で統一)

「自分は選ばれた特別な存在」という妄想癖

ヒトラーは、規律に欠けた怠惰な生活スタイルや、誇大妄想的性向がその後も特徴的であった。
ワーグナーの楽劇、中でも『リエンツィ』に触発された、自分こそ特別な使命を与えられているという自己意識を膨らませた。

ウィーンへ移る

母も病没、ヒトラーはウィーンへ

1907年末に母を亡くすと、翌年以降はウィーンに生活の場を移している。
ウィーンでの生活はヒトラーにとって暗い影を落とす事となり、後の第二次世界大戦において、ヒトラーはウィーンに対して冷酷で白状な対応を見せることとなる。

画家としての夢が潰え、暗い日々を過ごす

当時、ヒトラーが抱いていた画家としての道を切り開くという夢は、2度の造形芸術アカデミー受験不合格で潰えていた。
その後は独身者用の簡易宿泊所に寝泊まりし、描いた絵葉書を売って露命をつないだヒトラーにとって、先の見えないどん底の日々が続くことになる。

過失による兵役逃れから、ウィーンに留まる

1909年4月20日に20歳の誕生日を迎えた彼は、兵役資格取得確認の届け出を義務付けられていたが、その登録手続きを怠っていた。
そのため兵役逃れ発覚をおそれつつ、ウィーンに1913年5月までとどまらざるをえなかったのが実情だった。

父の遺産でドイツ・ミュンヘンへ

ヒトラーは再び安い絵葉書描きに戻る

24歳となると、利用制約条件により手がつけられなかった亡父の遺産を取得。
ようやくまとまった金ができてオーストリアを脱出し、辿り着けたドイツのミュンヘンで暮らし向きは多少よくなった。
しかし、将来について何ら展望が開けたわけではなかった。
ヒトラーは再び安い絵葉書描きの日常に舞い戻っていた。

ドイツ労働者党に入党、政治の道へ

兵役から必死で逃げたヒトラー

逮捕され、兵隊検査を受けされられるが…

兵役を逃れていたヒトラーに対し、オーストリア警察は、彼の行方をようやく捜し始めていた。
依頼を受けたミュンヘンの刑事警察がヒトラーの新しい下宿先に、母国で兵役登録せよとの命令をもってあらわれたのは1914年1月18日だった。
ヒトラーはただちに逮捕され、ドイツ国境に近いザルツブルクで兵隊検査を受けさせられた。

不適合で兵役を免れるが、第一次世界大戦が勃発

判定結果は、虚弱で兵役不適格。
オーストリアの兵役法では、兵役逃れを目的とする国外逃亡には懲役刑が科されるはずだった。
だが必死の嘆願が功を奏したのか強制送還もされず、ヒトラーはミュンヘンにとどまることになる。
その椿事から半年も経たぬ同年6月28日におこったサラエボ事件は、ヒトラーの運命をさらに劇的に変えることになった。

一転、第一次世界大戦に参戦

ヒトラーはこの頃からドイツ側に立ち始める

オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が夫人と共に暗殺されたこの事件で、テロ画策の張本人と目されたセルビアに対しオーストリアは宣戦布告。
独墺と仏露英に分かれた二大陣営間では総動員令の発布が相次ぎ、8月初めには両陣営間の全面戦争に突入し第一次世界大戦へと事態は急展開する。

兵役逃れから一転、バイエルン軍に志願

ヒトラーは、ミュンヘンを王都とすバイエルン王国の国王に、急ぎ従軍を願い出た。
彼の申請は、外国籍(オーストリア籍)ながら認められている。

オーストリアの為には戦えないが、ドイツの為なら戦える

ヒトラーは著書である『わが闘争』の第5章「世界大戦」では、複合民族国家オーストリアのために戦いたくなく、むしろ「わが民族を体現しているドイツ帝国のためならばいつでも死ぬ覚悟」ができていた点を強調している。
他方、鬱屈した青年期の苛立たしい気持ちからの解放だったともしている。

著書で嘘を付いているヒトラー

大戦では、ひたすら伝令役を務めた筈だったが…

ヒトラーは、西部戦線「フランドルの戦い」で機関銃攻撃に見舞われた所属部隊連隊長を救い、新兵から上等兵になった。
その直後、連隊司令部付き伝令兵になったヒトラーは、以後、下士官や将校に昇進することもなく終戦までの4年間、上等兵のランクに留まった。 彼に与えられた任務は前線にいる大隊指揮官に連隊指揮官からの命令を届けることだった。

著書の中では「最前線で塹壕戦を経験した」ことになっている

当時、最速の通信手段は電話連絡だったが、電話線切断が頻繁に生じたため、伝令兵の役割は重要だった。
ただ大隊司令部は最前線からは離れており、ヒトラーが直接最前線の塹壕まで命令を届けたわけではない。
しかし、ヒトラーは、自分が伝令兵だったことには触れず、前線で戦闘を行い、塹壕戦の辛さも十二分に経験したかのごとく回想している。

敗戦後、ヒトラーはミュンヘンへ戻る

敗戦後のミュンヘンでは政情不安が続く

敗戦後にヒトラーが帰還したミュンヘンは、革命が起こりバイエルン王国から「レーテ(評議会)共和国」へと変貌していった。
しかし、1919年5月に、レーテ共和国は国防軍・反革命義勇軍によって陥落させられる。

ヒトラーが政治情報要員となる

この後、ヒトラーは新生バイエルン国防軍啓蒙宣伝局「部隊コマンド4※」の政治情報要員に加えられることとなる。※バイエルン国防軍の政治情報要員要請機関
その責任者のK・マイア大尉から「軍特別教育課程」短期講習をミュンヘン大学で受けるように命じられた。

独裁者としての歩みが始まる

この頃から演説の才能を発揮し始める

その講師の歴史学教授A・V・ミュラー教授に、「奇妙にしゃがれた声で弁舌をふるい、しだいに熱っぽさを加え」講習参加者たちを魅了する聴講生として注目される。

演説の才能を買われ、弁士となる

ミュラーとマイアに雄弁家の才を見込まれたヒトラーは連隊講師(弁士)にとりたてられ、レヒフェルトの国防軍兵営での「反ボリシェヴィズム」教程コースへ「教育将校」候補生(26名)のひとりとして派遣された。

共産主義とユダヤへの敵意がむき出しに

ここで彼は、マイア大尉に対して「赤化」防止訴求力を確証し、同時に「ユダヤ人の活動がドイツ国民の人種的結核をもたらす」との、ユダヤ人=国民的危険(ドイツ人にとっての脅威)なる建白能力も証明してみせた。

ドイツ労働者党に入党

演説を武器に政治の道へ

同年9月に、極右民族至上主義系政党「ドイツ労働者党」(ナチ党の前身)に派遣され10月には入党している。
無論マイア大尉のさしがねであり、軍籍を保持たままであった。
政党籍と軍籍は両立しないのが一般則で、大尉の特別許可があったことが窺われる。
やがてヒトラーの演説は、党集会の看板となっていく。


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