ダム

ダムの歴史

ダムの歴史はとても古く、古代文明があった場所にはダムがあったといっても過言ではない。
一口にダムといっても、その用途はとても広く、飲み水、農耕の為の灌漑用水、都市を守る為の治水など、様々な目的でダムは作られてきた。
古くはエジプトなどの古代文明や、中国、日本などのアジアのダムの歴史を記述する。

ダムの世界史

ダムは文明と共に生まれた

古代、「文明」を生み出した地域は、世界で4地域ある。
いずれの地域も、チグリス・ユーフラテス川やナイル川、インダス川、黄河など大河がある流域に生まれている。
文明の発展は農耕牧畜の発展と、非常に深く関係している。
文明が発展した4地域は、いずれも乾燥地帯で、水をコントロールする事で農耕牧畜を可能にした。
さらに、農耕技術の改良とともに生産性を向上させ、多くの人を安定的に養う事で文明を発展させ、国家を形成した。
国家を守るためには、安定的な農業生産、人口増加、飲料水の確保、そして洪水などを抑える治水事業など、水のコントロールが必要不可欠となり、ダムが建設され始めた。

世界最古のダム

紀元前2900年代初期、エジプト第1王朝の創始者メネス王は、首都を建設する為、堤高15mのダムを築造して、ナイル川の流れを変えたとされる。
これが、文献「歴史(ヘロドトス/著)」に現れる世界最古のダム(堤防)である。
一方、現在の定説だと、最古のダムは、エジプト第2王朝時代の紀元前2750年に建設された「サド・エル・カファラダム(異教徒のダム)」どもいわれる。
サド・エル・カファラダムは、ピラミッド建設用の石切り場で働く労働者の為の飲料水を確保するために造られたもので、堤高11m、堤頂長106m、底幅84mと大規模なものだったようです。
古代エジプトでの灌漑用のダムは、エジプト第12王朝時代のアメンエムハト4世(アンメネメス3世)の治世(紀元前1815〜1806年頃)に建設された。

現存する最古のダム

現存するダムで最古のものは、シリアのホムス付近に建設された、ナー・エル・アシダムと考えられている。
堤高2m、堤頂長2000mで、紀元前1300年頃に建設されたと推定される。
現在でも上水道目的で使用されており、建設以来約3000年もの間、修繕を重ねながら稼働している貴重な歴史遺産である。

徐々に大きなダムが作られていった

アジア最古のダムは、中国・山西省のグコー川に紀元前240年頃作られた物。
堤高30m、堤頂長300mで、当時としては世界で一番高いダムだった。
12世紀に大和の国(奈良県)の大門池(だいもんいけ)が、堤高32mとなって世界一高いダムになったが、その後、14世紀末にスペインのアルマンサダムが完成し、世界一高いダムの称号を譲る事になった。

日本に残るダムの歴史

日本ダム教会の「ダム便覧」のよると、日本最古のダムは奈良県奈良市の帰る蛙股池(かえるまたいけ)である。一説には162年に築造されたといわれている。
このダムを皮切りに、挟山池満濃池住吉池など「灌漑用アースダム」が作られている。

狭山池

狭山池は、大阪府狭山市にあり、飛鳥時代(7世紀前半)に築造されたといわれている。
「敷葉工法(しきはこうほう)」により築かれた狭山池の堤は何度か改修を繰り返し、現在まで使われている。
改修には、その時代に活躍した人物が関わっており、昔のダム建設や改修には、多くの僧侶も携わっている。
※敷葉工法とは、土と葉の付いた小枝を敷き並べた層を交互に何層にも積み重ね、人力で踏み固める工法

奈良時代(8世紀)の改修では僧・行基(ぎょうぎ)が、鎌倉時代(13世紀)の改修では東大寺を再建した僧・重源(ちょうげん)が携わった。
また、17世紀初めには豊臣秀吉の命を受け、武将・片桐且元(かたぎりかつもと)が改修している。

行基は、狭山池の大改修だけでなく、日本各地を巡り、仏教の布教とともに各地で土木事業に携わったという。
狭山池は、現在でも灌漑ダムとして使われている。
平成の大改修では治水目的が加えられるとともに、周囲の景観も整備され、大阪府狭山池博物館がオープンした。

満濃池

満濃池は、飛鳥時代末期に建設された記録が残っている。
平安時代に洪水により決壊してしまったが、空海が大改修を行った。
その後も決壊・復旧を繰り返しており、江戸時代初期には讃岐国領主 生駒高俊が改修にあたり、その後は、江戸幕府の直轄領となった。
最後の改修は、1961年で、毎年6月に「ゆる抜き」という放流が行われる。

仏教による利他の精神

奈良時代に行基によって建設された昆陽池(こやいけ)は、日本で初めて造られた多目的ダムだ。
建設当初から灌漑の他、洪水調節も目的とされていた。
ダムは公共事業であり、彼らは自己の利益の為ではなく、仏教の「利他」の精神に基づき、事業に取り組んでおり、ダム建設の精神は「自分の事よりも他人の幸福を願うこと」である。

戦で使われたダム

豊臣秀吉は、その生涯において幾度となくダムを造り、戦で水攻めを行っている。
このように軍事目的でのダム利用は、日本では飛鳥時代にまで遡る。
663年、朝鮮半島での「白村江の戦い」に敗れた天智天皇は、九州防衛の拠点として、太宰府に「水城(みずき)」や、瀬戸内海に山城を築き、九州北部沿岸には、「防人(さきもり)」を配備している。

古代大和朝廷の水城

水城は、現在の福岡県筑紫野市に建設された春日城と大野城で、いずれも御笠川をせき止めたものだ。
「白村江の戦い」で敗れた唐や新羅の連合軍が、九州まで攻め込んで来たら、この水城を決壊させる事で人為的に洪水を発生させ、相手に打撃を与える戦略であった。

水攻めの名人 豊臣秀吉

豊臣秀吉は、1582年の「備中高松城攻め」や、1585年の「紀伊太田城攻め」で水攻めを行っている。
高松城は、周囲が沼地に囲まれており、なかなか攻めるのに難しい天然の要害であった。
そこで秀吉は、城を囲うように堰堤(えんてい)を築き、水攻めを敢行した。
堰堤の工事は僅か20日弱という突貫工事で行われ、ちょうど梅雨の時期とも重なった為、高松城はあっという間に水没したという。
太田城攻めも、わずかな期間で堰堤を造り、紀ノ川の水を堰き止めて城を水没させている。
秀吉は、墨俣の一夜城を含めて、土木工事、とりわけ突貫工事に精通していたと考えれている。


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