プロイセン(ドイツ)とロシアの領土拡大
17世紀のヨーロッパでは、中央集権化が遅れていたプロイセン王国(ドイツ)とロシア。
これらの国では、産業の育成や軍隊の強化などで近代化が進み、新興国として台頭していく。
当時のプロイセン(ドイツ)
17〜18世紀には、中央集権化の遅れていたプロイセンやロシアが国内産業育成や領土拡大を進め、台頭した。
ユンカーといわれる地主領主による農場領主制が支配的だったプロイセンでは、1740年にフリードリヒ2世(大王)が即位する。
重商主義政策によって国内産業を育成する一方、対外的にはオーストリア・ハプスブルク家の相続問題に介入してオーストリア継承戦争を起こし、鉱工業地帯のシュレジエンを奪取した。
また、ヴォルテールら啓蒙(けいもう)思想家を招き、「君主は国家第一の下僕」と称して、啓蒙専制君主と呼ばれた。
プロイセン(ドイツ)の領土拡大
プロイセン王国はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世と、その息子フリードリヒ2世(大王)の統治下で領土を拡大した。
- 1748年 アーヘンの和約(オーストリア継承戦争)
- マリア・テレジアのハプスブルク家相続に反対したプロイセンは、フランスと共にオーストリア継承戦争を起こし、シュレジエンを獲得した。
- 1763年 フベルトゥスブルクの和約(七年戦争)
- オーストリアが、宿敵だったフランスと組んでシュレジエン奪還のため七年戦争を起こすが、目的は達成できず、アーヘンの和約が再確認された。
- 1795年 ポーランド分割
- ロシア、プロイセン、オーストリアの3国が、ポーランドを3回に渡って分割した。
コシューシコの抵抗運動も失敗し、1795年にポーランドは消滅した。
当時のロシア
1613年にミハイル・ロマノフがロマノフ朝を開いたロシアでは、17世紀末にピョートル1世(大帝)が即位した。
彼は西欧先進国を視察し近代化を図る一方、スウェーデンとの北方戦争に勝利して、獲得した地に新首都ペテルブルクを建設した。
18世紀後半にはエカチェリーナ2世が即位する。
啓蒙専制君主として開明的政策を行ったが、プガチョフの農民反乱後は農奴制を強化した。
ロシアの領土拡大
ロシアは17世紀以降、シベリアを征服して領土を飛躍的に拡大。
一時は北米のアラスカまで領有していた。
- 1689年 極東進出
- 1689年に清とネルチンスク条約を結んで国境を定める。
18世紀には千島列島まで進出し、日本に対し通商を求めた。
- 1700〜21年 北方戦争
- 不凍港を獲得する為、ピョートル1世はスウェーデンを北方戦争で破り、バルト海への進出を果たした。
- 1725年 シベリア征服
- イヴァン4世はコサックの首都イェルマークを使ってシベリア西部を征服。
ピョートル1世の代にはベーリング海峡まで到達した。
- 1773〜75年 プガチョフの農民反乱
- コサック出身のプガチョフがピョートル3世を名乗って指揮した農民蜂起。
タタール人などの被支配民族が多加わり、ツァーリ先制の抑圧からの解放を求めた。
- 1796年 アラスカ到達
- ピョートル1世に雇われたデンマーク人ベーリングが発見。
毛皮貿易などで繁栄したが、財政難から1867年にアメリカへ売却する。
- 1815年 ヘルシンキ制圧
- 現在のフィンランドを勢力下に収める。
- 1855年 中央アジア征服
- 19世紀には中央アジアのハン国を次々に征服し、支配下に収めた。
- 1900年 ウラジオストク
- 東アジアの日本海側まで到達。この段階で、現在のロシア連邦領土のほぼ全域を支配地域に収める。