ドイツ帝国とイタリア王国

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ドイツ帝国とイタリア王国の成立

長い歴史の中で、常に小国が分立・対立を繰り返していたイタリアとドイツ。
19世紀後半にようやく、両国が統治一を達成し、ドイツ帝国とイタリア王国が成立する。
現代世界に名を連ねる大国らが誕生した瞬間であった。

教皇の領地を取り上げ、イタリアが統一

19世紀半ば、サルディニア王国を中心に、イタリア統一の機運が高まった。
首相のカヴールは、フランスと密かに手を結んでオーストリアと戦い、ロンバルディアを併合する。
フランスにサヴォイアとニースを割譲、そして、それを黙認する事で、中部イタリアを併合した。
一方、青年イタリア出身のガリバルディは、千人隊を率いてシチリアに上陸し、両シチリア王国を占領してサルディニア王に献上した。
1861年、ヴィットーリオ・エマヌーレ2世を王とするイタリア王国が成立し、ヴィネツィア、教皇領を併合して、チロルとトリエステ(未回収のイタリア)を除くイタリア全土を統一した。

イタリアによって併合された領土

チロルとトリエステ、バチカン以外は全てイタリア領となった。

  • 教皇領(ローマ)
    イタリア統一により、教皇領はバチカンのみとなった。
  • サルディニア王国(トリノ)
    サヴォイア家が支配し、首都はトリノだった。
  • ロンバルディア(ミラノ)
  • シチリア王国(ナポリ、シチリア)
    ウィーン会議後、ブルボン家が支配していた。
  • ヴェネツィア
  • トスカナ大公国

ビスマルクの鉄血政策によってドイツ帝国成立

ドイツの統一を先導したのはプロイセン王国で、オーストリアを除いた統一を目指した。
プロイセンの首相ビスマルクは、鉄血政策による統一を進め、1866年には普墺戦争(ふおうせんそう)に勝利を治める。
これによりドイツ連邦を解体し、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を成立させた。
プロイセンの強大化を恐れるフランスは宣戦布告し、普仏戦争(ふふつせんそう)となるが、プロイセンの圧倒的優位で推移する中、プロイセン王ヴィルヘルム1世が皇帝に就任して、ドイツ帝国が成立した。

帝国首相ビスマルクの政策

帝国の首相となったビスマルクは、工業化による経済成長、国内のカトリックへの差別(文化闘争)、社会主義者への弾圧と社会保障制度の拡充を合わせた政策などにより、国力増強と国民統合を図った。

ドイツ統一における戦争

普墺戦争 1866年
プロイセンとオーストリアの戦争。
プロイセンの勝利に終わり、ドイツはオーストリアと南ドイツ諸邦を除いて統一が進んだ。
サドワの戦い(1866年)で、プロイセン軍がオーストリア軍を破っている。
普仏戦争 1870〜71年
北ドイツ連邦とフランスの戦争。
ドイツ側の勝利に終わり、アルザス地方とロレーヌ地方を獲得した。
1870年のセダンの戦いでは、モルトケ率いるドイツ軍がフランス軍を破り、ナポレオン3世を捕虜にした。

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