フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:アメリカ32代大統領1933〜1945年4月12日)は、アメリカ史初めて3期以上(12年)大統領を務めた政治家であった。
彼の死後、「最長2期」という再選規制が憲法で明文化されたため、彼以外に3期以上アメリカ大統領を務めた人間はいない。(現在は最長8年まで)
結局、彼は4期目の任期の途中で病死するが、4選を可能にしたのは世界恐慌と第二次世界大戦の勃発という未曾有の世界的危機であった。
1932年の大統領選挙で、「ニューディール(新規まき直し)」を掲げて圧勝した彼は、選挙中から各種の学識者を集め「ブレーン=トラスト」を組織。
実験的な政策を次々とくり出す一方、「炉辺談話」とよばれラジオ放送で国民に直接語りかけるなどして世論操作にも成功し、危機の時代の指導者として支持されていったのである。
ただし、彼自身は体系的な政策構想をもっていたわけではなく、大統領就任演説でも「われわれが怖れるべきは恐怖心だけである」などと国民を鼓舞するだけで、具体的な政策は語っていない。
また、ときには相反する主張の人材を登用したが、これが逆に現実に沿った柔軟な政権運営を可能にしたといわれている。
こうした彼の特性は学生時代に築かれた。
ニューヨークの名家に生まれた彼は、上流階級の子弟が入学する超名門のグロトン校からハーバード大学に進むが、生まれついての特権意識、あるいは「ノブレス=オブリージュ(高貴なる者の使命)」に突き動かされ、たいして優秀な成績ではなかったにもかかわらず、常に指導者としての立場に就きたがった。
しかしその政治的な手腕は見事で、編集長を務めた学内新聞『クリムズン』では、一般学生の意向をくみ取ると同時に彼らの世論を巧みに誘導し、1899年に南アフリカ戦争が始まると、イギリスの植民地主義に反対する一大キャンペーンを展開している。
ただし、この運動で自国の帝国主義政策には言及しないなど、主張の矛盾や一貫性のなさが見られた。
大学卒業後、弁護士を経て政界入りした彼は、セオドア・ルーズベルトの遠縁という威光もあって、1910年にニューヨーク州議会議員に当選。
ウィルソン政権下で海軍次官に任命されたほか、1920年には民主党の副大統領候補に選出されるなど、とんとん拍子で政治キャリアを積み重ねていった。
しかし、このときの大統領選挙で敗れた彼は、その翌年、ポリオにかかって下半身に障害を抱えるという悲劇に見舞われている。
これら初めての挫折は、政治家としての彼の内面を鍛えたといわれ、その後、ニューヨーク州知を経た彼は“4選大統領”として歴史に名を刻むのである。
1929年 | 10月 | 世界恐慌が始まる |
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1933年 | 3月 | 大統領に就任し、救済(Relief)復興(Recovery)改革(Reformation)の「3R」を目ざすニューディール政策を開始 |
5月 | 「農業調整法(AAA)」「テネシー川流域開発公社(TVA)法」成立 | |
6月 | 「全国産業復興法(NIRA)」成立 | |
11月 | ソ連を承認 | |
12月 | ラテンアメリカ諸国に対する善隣外交を表明 | |
1935年 | 7月 | 労働者の団結権、団体交渉権を保障する「ワグナー法」成立 |
1937年 | 10月 | ドイツや日本を伝染病にたとえ、隔離すべきとする「隔離演説」を行う |
1939年 | 7月 | 「日米通商航海条約」破棄を日本に通告 |
8月 | アインシュタインらから原子爆弾開発を進言する書簡を受け取る | |
9月 | 第二次世界大戦勃発 | |
1941年 | 3月 | 「武器貸与法」が成立7月 |
7月 | 在米日本資産を凍結 | |
8月 | 対日石油禁輸を発表 | |
12月 | 真珠湾攻撃 | |
1942年 | 2月 | 西海岸に住む日系人の強制収容を開始 |
6月 | ミッドウェー海戦で日本軍に大勝 | |
8月 | 原爆開発計画(のちのマンハッタン計画)が始動 | |
1944年 | 6月 | ノルマンディー上陸作戦 |
11月 | 大統領選挙に勝利、史上唯一の4選大統領に | |
1945年 | 4月 | 米軍が沖縄上陸を開始、ルーズベルト大統領が急死、トルーマン副大統領が大統領に就任 |
5月 | ベルリン陥落 | |
8月 | 広島と長崎に原爆投下、第二次世界大戦が終結 |